学校

 昼休みが終わろうとしている物騒がしい午後の隙間、背後からもごもごと声がして、それが私を呼び止める。
「きみは、どうして昼休みに生徒会室へ来なかったんですか」
 振り返ると、先生が立っていた。生徒会担当のひょろりとした男である。私はとっさに身構える。
「保健室へ行ってたから」
 嘘ではなかった。保健室へ行って、養護の先生と友人たちと楽しく無駄話をしていたのだ。
「具合が悪いのなら、仕様が無いですが、もうすぐ生徒総会もありますし、きみは書記という役職にも就いているのですから、来れる日はなるべく来て下さいね」
 先生はそれだけ言うと、ぷいと向きを変えて、どこやら行ってしまった。
 私の真意を先生は見破ったのかどうかは分からないが、この一件で、どうやら先生には私が書記だという認識はある、ということが分かった。無関心すぎて、生徒のことなど何も覚えていないと思っていたのだけれど。


 五時間目は先生の授業だった。教科書を朗読する先生の声は少し小さいし、ぼんやりとしているので、とても眠たくなる。だから、私は先生を観察して、その眠気を紛らわす。右の微妙な寝癖とダサい銀縁のメガネ。年は三十すぎているのか、よく分からない。先生のスーツの胸ポケットにはいつも万年筆が入っていて――彼女からの贈り物だという噂があるのだが、彼女がいるのかどうかは疑わしい――それを使って生徒のノートを添削をする。別に普通の赤ペンでいいじゃない、と私はいつも思うのだが、綺麗な青色のインクで「良い文章が書けています」などとノートに書かれると、妙な気分になったりするので、女教師の使うキャラクタースタンプよりはマシかなとも思うのである。



 次の日の四時間目、私は本当に気分が悪くなったので、数学教師に断り、教室を出た。前日の嘘が祟ったのかもしれないなと思い、保健室へと廊下をとぼとぼ歩いていると、廊下の角のブラックボードの前、薄暗い空間に先生がいた。
「何してるの、先生」
「あ」
「私は今から保健室に行くところ」
 サボりと思われてはかなわないので、先回りして釘を刺した。しかし、先生は私のことなど気にならないように、紙と画鋲を準備している。
「私は今、空き時間なので、短歌の優秀作品を貼ろうとしているところです」
「ふうん」
 私は先生が画鋲をボードに突き刺す様子を黙って見ていた。長い指がボードの一番上に、秩序よく、ぎゅうとピンを押し込んでゆく。無駄に身長だけは高いのだなと思った。
「先生」
「……何でしょう」
 私は背伸びをして、両手で先生のメガネを奪い取る。
「あっ」
「いつも思ってたけど眼鏡ヘンだよ。フレーム変えればいいのに」
「目が悪いものですから、見えればそれでいいんです。それよりも早く返してください」
 私は先生のメガネをかけてみたが、度がきつすぎて世界がゆがんでしまう。仕方がないので、メガネは私の小さなおでこの上に乗せておく。
「先生」
「……何でしょう」
 私は隙を狙って、胸ポケットの万年筆を奪い取る。
「ああっ」
「この万年筆欲しい。私にちょうだい」
「え」
 先生は困惑したように、私と向き合った。
「それは、差し上げられません。私の仕事道具なので」
「これ貰ったら、私、書記の仕事頑張るから」
 私は口から出任せを言う。
「無理ですね」
「彼女に貰ったものだから?」
「大事なものだからです。きみにも大切なものはあるでしょう?」
「…………」
 先生は何も無かったように、憮然とした私からメガネと万年筆を取り戻す。そして、作業に戻ろうとする。私は気持ちがしぼむ。
「先生は……」
「はい」
「先生は、私の名前を覚えてないよね。だから『きみ』と呼んでごまかしているんでしょ」
「覚えていますよ」
「嘘。いつも、生徒を指名する時、座席表見るじゃん」
「きみだって、私のことを名前で呼ばずに『先生』と呼んでいるのだから、同じことでしょう。学校とはそういうものです」
「そうじゃなくて、私は……」
 私は自分でも何を言っているのかよく分からなくなって眩暈を感じると、さっきまでの胃のムカムカが急激にせりあがってきて、しゃがみ込んだ。
「……大丈夫ですか?」
 先生も私の目の前にしゃがみ込む。
「放っといて」
と、言った瞬間、異様な吐き気がして、床に嘔吐してしまった。朝に飲んだオレンジジュースが出てきて、口の中に苦味が広がる。それしか出てこないのに、何回も何回も胃が逆流して、更に何かを押し出そうとする。
 その間、先生は背中をさするわけでもなく、ただただ、大丈夫ですかと繰り返すだけだった。
 先生は全然先生じゃないよ、と伝えたかったが、胃が痙攣してそれどころではなかった。

ともだち

 少年はサケをかっていました。
 2人はいつもなかよしです。サケくんは少年のへやにある水そうの中にいます。少年はごはんのじかんになると、サケくんにえさをあげます。サケくんはそれをとてもたのしみにしているのでした。
 そして、少年とサケくんは、まいにちいっしょにあそびます。たとえば、じゅうばこよみ・ゆとうよみクイズや日本の川のなまえクイズなどをして、たのしみます。
「サケくん、『雨具』はじゅうばこ? それともゆとう?」
「じゅうばこ、だね」
「ちがうよー。ゆとうだよ」
「そっかあ。また、まちがえた」
 サケは、ふふふ、とわらうと、口からまあるい水のたまを3つ出しました。少年は、これを見ると、いつもうらやましくなります。ぼくも、いつかつくってみたいなと心の中で思いました。

 ある日、少年がテレビを見ていると、さかながうつっていました。さかなは、川をじゆうにおよいでいます。そのとき、少年は、サケくんもほんとうは川でおよぎたいのかもしれないなと思いました。
 少年はサケくんに言いました。
「サケくん、水そうの中はいやかい?」
「きみといっしょにいられるから、たのしいよ。でも……」
「でも?」
「川でおよいでみたいな、って前から思っていたんだ」
「そっか」
 少年はサケくんを川につれていきました。水そうを水ぎわにおきました。4年もいっしょにいたので、なんだかさみしいきもちになりました。
 サケくんは、目のまえの川にわくわくしていました。今まで、もっと広いところでじゆうにおよぐことをゆめみていたのです。
「サケくん、がんばっておよいでね」
「うん」
 少年は川にサケくんをはなしました。そして、2人はおわかれしました。
 サケくんは川の中心めざしておよぎます。しかし、思ったよりもながれは早かったのです。
「そうだ。ぼくは4年も生きていたんだ。人間ならおじいちゃんだよ。力が出ないはずだ」
 それでも、サケくんはいっしょうけんめいおよぎました。ぼくは白いじゆうを手にいれたんだとサケくんは思いいました。
 しばらくすると、サケくんは白いしぶきの中に見えなくなりました。
 


 教科書に載っている三ページ程の物語を、りかちゃんに読んでみてよと、せかされて流し読みした。
「ね、ね、何か気付いた?」
「え」
「まちがいあったでしょ? 教科書なのに」
「ああ。後ろから二行目の『思いいました』ってところ?」
「そうそう。さすが」
 りかちゃんはとても嬉しそうに話した。
 それから、私たちは、重箱読み湯桶読みゲームをして楽しんだ。ゲームは私のほうが得意だったけど、実はりかちゃんのほうが頭が良いんだよなあ、と幸せそうなりかちゃんの笑顔をながめた。












という夢を見た。

データ

朝ほど体調が悪い時は無く、最近は頓に体重が減少した所為か胃痛と眩暈に襲われるのを止められず、以前、一緒に朝を迎えた相手に低血圧だから朝に弱くて起きれぬのだということを伝えると、それは単に言い訳であって低血圧がそのような症状を引き起こすとは限らないのだから早くベッドから出て準備しろという御言葉を頂いて、頗る不機嫌になったことを思い出す。一旦、夜になると体調が回復してきて、頭も澄み渡る様に感じ、それは文章を書き上げる達成感つまり体育祭や文化祭が終わった後の達成感と同等で、それがある故に強気でいるのだが、実はその内容は中身を伴っていないものばかりで、朝に読み返すのが怖く、一度書き上げたものは誤字脱字の推敲以外では読み返さないという内規則、放置。文章がどうあるべきなのか、どのようなものが精巧な文章といえるのか私には分からないが、自分が判断できることは只、好きか嫌いかのみである。最近の人の言葉の中に、これは方言なのかもしれないが、已然形・仮定形と命令形の使用に曖昧な箇所を見つける度、私は口の中でもごもごと五段活用を一人唱えるのである。自分の思考回路が肯定されるという根拠は無く、自分が好きなものを周りの人が好きだと言ってくれる確証も無く、確かに探せば世界にはいくらでもいるのだろうが、少なくとも私の周辺には私と全く同じ嗜好を持つものはいない。それは寂しいことであるが、同時に自分の独占欲を満足させてくれるものかもしれない。恋愛は支配欲だと或る人は言った。中田さんのことばかり考えている。薬を飲んでいるみゆきさんのことも考えてみる。彼女の悲しみを文章にして欲しかったと言われたが、そんなもの知らんがな。勝手に薬を飲んで大人しくしていろと突き放した気分になるのは、嘗て私が暮らしていた家に、あの狭苦しくて楽しかった生暖かい家に、彼女が住んでいることを嫉妬しているからなのかもしれない。思い出の場所。叔父が除霊祭を行った数日後、伐採した木が処分する前にその場所から何時の間にか無くなっていたのだが心当たりはあるか、と問われた。勿論、私も両親も処分した覚えは無いし、若しかしたらみゆきさんが片付けたのかもしれないということを伝えたのだが、それは叔父も確認済みのようで、一体誰があの木を処分したのか分からぬまま、デクレッシェンド。私はきっと霊がまた別の場所へと移っただけではないのだろうかと思っている次第であるが、霊能力者でもないし、そういう何かは未だ見えぬままで、本当のところは分からない。今日は殊に換気扇から、音階で言うならBの音がスースーと聞こえ、これはもしや数日前に片付けた霊の仕業かと、ぼんやりと立ち尽くすだけで申し訳なく思う。私には何も出来ない。その私に友達が、世界中の人から好かれるにはどうしたらいいのかと問うてきた時、思わず私は、死ねばいいよと返答してしまったが、やはりそれは拙かったのではなかろうか。

夜の会話

「あなたのお時間、頂戴致します」
「え」
「って思うのよ。お付き合いする人に対して」
「何それ」
「前の彼氏から別れ際に言われたの。“君と結婚するために、俺は時間と金を随分費やしたのに、全部無駄になった。俺と結婚する気がないのなら、初めから言えよ”」
「さ、佐川、結婚詐欺してたの……?」
 暗闇に南の声が大きく響いた。彼女と布団を並べて寝ていると、修学旅行の時みたいに、言いにくいことも言えるような気がする。気持ちだけ、あの頃に戻ったみたいに。
「いや、付き合っている時は、本気で好きだったよ。だけど、初めにお互いのこと確認し忘れてたんだね。私、一生独身主義って言い忘れてた。確かに、彼、四十過ぎてたしなあ。そりゃあ、結婚したいよね」
「よく訴えられなかったね。彼の被害総額、二年と数百万くらい?」
「はは。悪態つかれたけどね。“俺のような被害者を出さないためにも、もう年上とは付き合うな。付き合うとしたら、結婚を覚悟して付き合え”と痛い忠告」
「ううむ」
「まあ、年下なら、すぐには結婚しようとか言い出さないし大丈夫かなと思いきや、そうでもないんだよね。私に費やす時間は結果として無駄になっているんだから。婚活のための貴重な時間を貰って申し訳ない感じ。頂戴致しますって感じ」
「えー。私とか友達はどうなの? 一緒にいても時間の無駄遣い?」
「友達と過ごす時間って、くだらないことばっかりやったり言ったりしてることが前提みたいな感じじゃない? だから、友達となら無駄な時間過ごしても、それはフィフティフィフティなんだよ」
「そうなのか。難しい……」
 南が天井に貼り付けている蓄光シールは星座のように光っている。まるで夜空を見上げているみたいな気分になる。私は星座に詳しくないけれど、オリオン座とかさそり座とかそういうものの形に、わざと貼り付けているのかもしれない。
「結局さ、私には恋愛の着地点が見えないのだよね。皆は『結婚』というゴールがある。それは確実らしい。でも、私にとってそれは不安定で薄ら寒いものでしかないんだ」
「恋愛ってそんなに難しいものなのかな」
「ふうむ」
「佐川は恋愛について考えすぎだよ。私はね、男の人の顔を見て、その人とセックスできるかどうかで恋愛対象かどうか判断するよ。案外簡単なんだよ」
「それは短絡的なような。でも、私が考えすぎなのかな……」
 南の言うことも一理ある。だけども、そうやって後先考えずに無闇に始めた恋愛が相手を傷つけ、結果的に自分も傷付くことにもなる。実際、それをやってしまった。そして、後悔。
 そういえば、この前、妹にに話した時、別のこと言われたっけ。「結婚しないってそれ、遊び? 相手のこと弄んでるの?」
 私は確かに相手と向き合って、相手と会話して、恋愛している。だけども、私は結婚はしたくない。形式に囚われたくない云々より他の理由もある。でも、世間はそう見做さない。
「ねえ、南。私に次はあるのかな……?」
「…………」
「ねえ」
 私は自分の布団からそっと足だけ出して、南の足に絡めてみる。意外とひんやり、ふにふにして気持ち良かった。南の嫌がる声がするかと思ったが、何の反応も無かった。もしかして。
「ねえ。南ってば!」
「……はい。私のダイヤル式の向こうには……引き出しの中に……ねこ……」
 完璧に寝言だった。
 平和な人だ。私もいつか、南みたいに恋愛に対して明るく向き合えるといいんだけど、そんな日は来るのかなあと思った。たとえ来なくとも、南みたいな友達がいればいいか、とも思えた。でも、南がいつまでもこんな私を相手にしてくれるかどうかは分からないけど。
「おやすみなみ」
 勿論、反応は無かった。 私は、もしゃっと丸まっているタオルケットをそうっと南にかけてあげた。

自分の境界

 クライアントが自殺を図った。
 事象だけ見つめれば、このことはもう四度目なので、またあのクライアントか、と同僚たちは思ったかもしれないが、私にはひとつだけ気になることがあった。それは、自殺の原因が私の言葉に起因している、ということだ。本人が病室に於て、そう呟いていたらしい。しかし、私には、何も思い当たる節が無かった。唯一の救いが、四度目の自殺も未遂に終わったということであった。
 この仕事をしていれば、こういう事態も起こり得るということは肝に銘じていたのだが、実際、自分の身に起こってみると、少し、心のバランスが崩れてしまった。
 そして、こんな時に限って、他のクライアントから苦情を受けるのだった。いつもなら、軽く受け流すところを、今日は何か心に引っ掛かった。
「結局、あんたは平等と口では言ってるが、俺のことを下に見て差別してるんだろう。そうでなきゃ、こんな仕打ちはない。たかが一人の患者を救えないで、他を救おうなんて浅ましい。出来るわけがないだろうが」
 昔、恋人にも同じようなことを言われたのだった。
「俺一人救えないのに、カウンセラーになって他人を救おうなんて傲慢だよ。君の性格の悪さで、カウンセラーが務まるわけがない。只の偽善だ」
 仕事のことで心が乱されたのは、久し振りだった。このような場合、誰かに相談したいと思ってはみても、一体誰に相談していいのか分からなかった。
 家に帰っても、ソファの上に一人寝転び、ぼんやりするだけで、気力が無かった。私は、自分の言葉が人の人生を左右する事実に畏れていた。人の為を思って行動していることが、実を結ばないどころか、返って悪化を引き起こしたことに、茫漠とした心持ちに成る。
 ふと思い出したように携帯電話を手に取り、実家に電話してみる。十秒程コールすると、相手が出た。
「はい。新井です」
「もしもし」
「あら、優季。珍しいわね。何かあったの?」
「別に。何となくかけてみただけ」
「そうなの?」
「……うん」
「まあ、何かあってもすぐに立ち直る気丈さがあなたの長所だから、大丈夫でしょうけど」
「何それ。そうなのかな」
「そうよ。だから私も安心して暮らしていけるの」
 母はくすくすと笑っている。それから、日常のこと、飼い犬のことなどを少し話して電話を切った。
 今日も母に布石を打たれて、何も相談することが出来なかった。例え、悩みを聞かれたとしても、母に上手く言える自信は無かったけれども。
 母との電話を切った後、すぐに着信があったので、母が折り返し電話をかけてきたのかと思いきや、ディスプレイには友達の名が表示されていた。電話に出てみる。
「もしもし」
優季、聞いて。また男に捨てられた。トラウマになりそう……」
「ふむ」
 そこから、彼女の話は三十分程続いた。よく饒舌に話せるなあと感心する。私情を挟む隙が無い。
「うーん、やっぱり優季はカウンセラーだけあって、頼りになるなあ。しかも、しっかりしてるから悩みなんてないでしょ」
「いや、あるよ」
「そうなの、意外。でもまあ、私みたいな凡人がアドバイスしても何の役にも立ちそうにないから止しておくよ。それに、優季は自分でうまく消化してそうよね」
 彼女は“悩み”を全て打ち明けてしまうと、すっきりしたように電話を切った。
 私は自分の仕事を大切に思っている。クライアントに対して真摯に向き合い、自分の感情はさて置き、自分なりに最善策を尽くしているつもりだ。それは、そこそこのお金を貰っているからであって、仕事には責任を持たなければならないという持論に因る。
 しかし、一旦、仕事から離れると、私はカウンセラーではない。私だって普通の女だし、落ち込んだり悩んだりすることもある。私は友人同士、親子同士ではいつでもギヴアンドテイクだと思っていた。そして、人のあらゆる相談にも乗ってきた。しかし、私が人に自分の悩みなどを相談する機会は訪れなかった。私は、自分の中でもやもやとしたものが消え行くのを黙って見ているだけだ。いくらカウンセラーとはいえ、自分の感情を抑圧したり、昇華したりすることが得意とは限らないのに。仕事と自分の感情は別物だ。
 私は携帯電話を放り投げ、家を出た。


 窮屈な感覚だった。今、自分が死んでも代わりのカウンセラーなどいくらでもいるのだし、自分よりもそれに向いている人だっていくらでもいる。私という個体と世界の境界が揺らぐ。
 歩きながら、今日訪れたクライアントたちのことを考えた。リストカットオーバードーズ摂食障害、妄想、幻聴……。私もリストカットして消えてしまいたいと思った。しかし、痛みに慣れていない私は、そうすることが怖かった。死も漠然だった。
 はっと思いついた。そして、私は鞄の中から大きな絆創膏を取り出し、自分の左手首にそうっと貼る。少し体が軽くなる。そして、そのまま、潮野のマンションへ向かった。


 私が突然訪問したことに、潮野は驚いていたが、部屋に入れてくれた。
「ビールでいい?」
「うん」
 潮野が渡すビールを私は左手で受け取った。
「今日も暑かったね」
「うん」
「今度の日曜、映画でも見に行く?」
 彼は私の左手首に気付いてないのか。
「潮野、あのね……」
「ん」
「えっと……」
 私は左手首を擦ったまま、何から言えばいいのか少し戸惑う。クライアントが自殺未遂をしたこと? クライアントに罵倒されたこと? 友人が悩みを聞いてくれなかったこと? 私が考えている“何か”?
優季さん」
 彼の表情が硬くなった。
「ちょっとね、そういうの、重い」
「え」
「俺、彼女が年上だと甘えられると思って、六歳も上の君と付き合ってるんだよね。だから、いきなり、俺に負担を持ち掛けないで。そういうの、すごくしんどいし、年上に甘えられるの重い」
「いや、そういうわけではなくて」
「その左手も。カウンセラーがそういうことやっていいわけ?」
 尤も至極な意見に、私は何も言えなくなってしまった。私はただ、潮野に心配されて、優しい言葉をかけてもらいたかっただけなのだ。しかし、彼は怒っていた。
「あの……」
「…………」
「そういや、この後、ちょっと友達と会う約束があって……。ちょっと早いけどもう行くね。顔が、見たかっただけなんだ……」
「うん。俺も今日はレポートが忙しいから」
 奇妙な言い訳を述べ、鞄を持つと、私はすぐにマンションを出た。勿論、潮野は追って来なかった。


 うまく頭が回らなかった。私がやっていることは自分でも意味不明だと思った。ただ、色々なことに傷付いている自分のことを誰かに心配してもらいたかっただけなのだ。カウンセラーだからといって、完璧な人間だというわけではない。仕事は理性と理論で片付けているが、自分にも感情はあって、傷付いたりすることもあるのだ。
 弱さをひけらかしている者だけが弱いのではない。弱さを内に秘めている者もいる。自分の弱さをうまく口に出せない者もいる。 
 結局、みんな、自分しか見ていないのだ。自分の悩みと他人の悩みを比較して、自分に重きを置く。人の痛みは自分の痛みではない。自分が、自分が、と迫る人ばかりでうんざりする。


 橋の上まで来ると、川を見下ろした。私は気が付かないうちに泣いていた。悲しいのか、悔しいのか、寂しいのか、何なのかよく分からなかった。本当にどうでもよかった。私がどうなろうと、他人がどうなろうと。何も、関係ない。
 そう考えるのと同時に、これは単にいじけているだけなのだということも、頭の隅ではっきり分かっていた。
 私は、やあ! と言って、左手首の絆創膏を思い切り勢いをつけて剥がした。そして、それは、ひらりひらりと橋の下へと落ちていった。
 これは、世界に八つ当たり、なのだ。
 暗闇の所為で、流れ行く絆創膏など見えもしなかったが、少し、すっきりしたような気がした。

夏の思い出

「今日、除霊祭を行う。今から出掛ける準備して」


 午前八時、叔父からの電話で起こされ、私は相槌だけで答えた。昨日、寝たのが二時過ぎだから、睡眠時間は六時間弱。まあいいか、と支度を始める。
 叔父と私は仲が良い。本当の親子のようだ。そして、叔父は何か面白そうなことをする時には必ず連絡をしてくれる。私はそれを楽しみにしている。


 電話で告げられた集合場所、叔父の貸家へ行ってみると、家の前に叔父と二人の女性が立っていた。現在の住人のようだ。そして、私もまた、昔、その家の住人であった。
「おはようございます」
 私が挨拶をすると、彼女たちが気が付いた。
「自分の姪です」
 叔父が私のことを紹介してくれる。続けて彼女たちも自己紹介する。
「はじめまして。川口です」
「はじめまして。みゆきです」
 私の名前と似ているなと思った。しかし、何故ファーストネームを? みゆき、深雪、御幸……一体どういう字を書くのだろう。
「ここ最近、霊が出るのですよ」
 私が字面について考えていると、徐に、川口さんが話し出した。
「え」
「女の人と男の人の霊が。木の傍でこちらを見ているんです」
「はあ……」
 叔父が言った除霊祭とは本気だったのか。彼をちらりと見る。叔父は彼女たちに分からないように、こっそり、にやりと笑った。
「あの、私も以前、この家に住んでいたのですが」
「霊、見ましたか?」
「いえ……」
「この辺りなんです」
 みゆきさんが指差す。家とブロック塀の間八十センチ、奥行き三メートルほどの隙間に、私よりも少し小さい背丈の木が生えていた。私はじっと見つめるが、何も見えなかった。更に目を細めてじっと見つめるが、朝のまぶしい光とゆらゆら揺れる小木しか目の前には存在しなかった。
 以前、占い師に、私の向いている職業は霊能力者だと言われたが、何も見えないし、何も感じなかった。おかしいなあと私は首を傾げる。
 彼女たちは、昨日の夜見たよね、絶対見えたよね、本物だったよね、兵隊さんもいたんじゃないと小声で話している。
「どうするの?」
 私はこそっと叔父に聞いてみた。今まで、窓が壊れたとかエアコンが壊れたとか、そういう類の連絡が借家人から来たことはあったが、霊の相談は始めてであった。
「除霊しよう。ノコギリも準備してあるんだ」
「ええ? そんなんで大丈夫なの?」

 叔父は、除霊するんでちょっと待ってて下さいね、と彼女たちに言い放ち、家とブロック塀の隙間に入って行った。川口さんは驚いたようにそれを見つめ、みゆきさんは心配そうにそれを眺めている。みゆき待たなむ、いざ除霊を。私はぼんやりと百人一首を思い出した。こんな時に、だ。


 叔父は小さな木を持って戻ってきた。うっすらと汗をかいた首筋をタオルで拭きつつ言う。
「さあ、木を切ったので除霊完了です。また霊が現れるようでしたら、ご連絡下さい」
「すみません。ありがとうございました」
 彼女たちはひょこひょことお辞儀をしていた。


 帰り道、叔父に言ってみる。
「ねえ、夜に来たら、私にも霊が見えたのかなあ」
「さあ。単に木が揺れて幽霊に見えたんじゃないの? みゆきさん、薬飲んでるらしいしね。精神病の」
「ふうむ。幻覚だったのかしら。みゆき待たなむ、いざ薬を」
「ああ。御幸ね。藤原忠平か」
「小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ」
「優雅に暮らしたいねえ」
「やんごとない感じでね」
 家に着いたら、氷を入れた冷たい麦茶を叔父に飲ませてあげようと思った。おつかれさま。

流れる

 そこは地元の小さな遊園地。
 遊具は数える程しかなく、敷地面積も大きいわけではない。しかし、常に、ある程度の人で埋まっている。親子連れもいれば、友達同士、勿論、恋人同士もいる。

 ある高校生くらいの男女がいた。女の子はよく笑う子で、服装も露出が多いわけでもなく、健康的で好ましい。男の子のほうは、少し恥ずかしがりながら、まだデートに慣れていない感じで、もたっとした印象であった。
 彼らはティーカップラウンドに乗ったり、小さなジェットコースターに乗ったり、ひよこレースを見たりしながら、終始笑顔であった。
 彼らはある程度アトラクションを楽しんだ後、売店の横にあるベンチに座り、ぽつぽつと会話を始める。
「今日は天気で良かったよね」
「うん。私、すごく楽しみにしてたからね、遊園地」
「そっか。俺も」
「この後、どうしよっか」
「うーん」
「ファミレスでも行く?」
「そうだね」
「まだ、帰りたくないし」
「……俺も」
「じゃあ、最後に観覧車に乗ろう」
「そうだね」
「じゃあ、行こ」

 彼らは、さりげなく手を繋いで、観覧車の方へと歩いて行く。手の繋ぎ方にも色々あるらしい。握手のように繋いだり、お互いの指を絡ませながら繋いだり。彼らは恋人繋ぎをしていた。


 僕はそんなふうに手を繋いだことはない。彼らの手のひらの温度が羨ましくて、自分の手のひらを見る。乾いていた。
 随分時間が経った気がした。こうやって、人間観察をするのも飽きたので、僕はポケットの中の四つ折にされたルーズリーフをもう一度だけ読み返す。そこには、可愛らしい文字が並んでいた。

『今度の日曜、十時に、福田遊園地で待っています。売店近くのベンチに座っているので、声をかけて下さい。 本山』

 クラスに本山さんなんていなかった。もしかしたら、他のクラスにはいるのかもしれないし、学校の中にはいるのかもしれない。そう思って、ここでずっと待っていたが、それらしい女の子はどこにも見当たらなかった。
 薄々気付いてはいた。僕の周りだけ時間が進む。そして、僕はまるで映画を見ている気分になる。僕のことは関係なしに物語は進み、僕が介入することを許さない。
 いつも僕は、人に自分の情けないところを見せてはいけないと気を張って生きてきた。そして、見せてしまうと、そのズレを直そうと必死になる。最近は、そのズレがどんどん大きくなって、どうしようもない気分になっている。
 しかし、みんなは僕がこんなことを考えていようといまいと、自分のやりたいことをやっている。そうだ、世界は自分を待ってくれないし、自分のためにあるわけではない。
 ここから見える観覧車はゆっくりとしていて、動いているかいないか分からないくらいだった。きっと、さっきまでそのベンチに座っていた高校生たちも、今頃乗ってるのかもしれない。
 僕は自分の腕に何箇所かある青黒い痣を擦った。昨日、できたばかりで、押すと鈍い痛みを感じた。
 生きているという実感と同時に、生きようと思った。