SSAW

 ギターかバイオリンを始めようと思った。
 挫折してしまったピアノを諦め、新しい何かを始めたかったのだ。本当は何でもよかった。しかし、未だに弦から離れられない自分もいる。
 迷った時は、高橋だ。彼女に相談してみると、「ギターにすればいいよ」と言ってくれた。「ギターなら弾き語りもできるし、きっと楽しいよ」
 高橋の声はいつでも優しい。


 春、僕は近くの古びた楽器屋で、手頃なギターを買った。黒いボディーがつやつやしていて、簡素なギター。何かを始めるには春が一番だと思う。活動が順調に進み出す春。僕は毎日、タブ譜とにらめっこしながら弦をはじいた。でも、僕の左手は思うように弦を押さえられなくて、すぐに指先が真っ赤になる。ピアノとは違って弦が指に食い込んでくるのだ。だけど、新しいことをマスターしていくのは、とても楽しいし、嬉しかった。
 数日後、高橋から電話があった。
「今、何してるの?」
「ギターの練習」
 僕はギターの弦を緩めながら答える。
「本当に買ったんだ?」
「そうだよ。高橋だって勧めたじゃん」
「上手になった?」
「全然。指がちぎれそう」
「暇になったら、教えてあげようか」
「え。ギター弾けるの?」
「ちょっとだけ」
 高橋は電話の向こうでくすくすと笑っている。僕はいつも、彼女が何を考えているのか分からない。


 夏休み、高橋はギターを教えるために僕の部屋へやって来た。彼女は一生懸命教えてくれて、部屋は冷房がかかっているというのに、汗をかいてしまうほど僕たちは必死になった。ピアノが弾けた僕は、ギターに関しては全くの劣等生だ。高橋に教えられても、相変わらず音がぼよんとしていて悲しくなる。ぽろん、ぼよん、どよん。
 それに比べ、高橋の音は鋭い。「ちょっとだけ」弾けるというものではなく、話を聞けばギターコンクールに出場したり、バイトでギター教室の講師をしたりしていたそうだ。
「どうして皆にはギター弾けるって言わないの?」
「ギタリストを諦めてしまったからね。もう今更、恥ずかしいよ」
 高橋の秘密を独占できるのは嬉しい。しかし、彼女の少し寂し気な顔を見て、何となく居た堪れなくなった。そんな顔するなよ。僕は図々しくもリクエストしてみる。何でもいいからさ、と迷う高橋にギターを押し付けた。僕は、それまで、高橋がまともに曲を演奏するのを聴いたことがなかったのだ。
「……じゃ、適当に」
 そう言って、高橋はギターを受け取った。彼女が弾いたのは、歌謡曲でもなく「コンドルは飛んでいく」でもなく、ミッシェル・カミロのような曲だった。即興。ギターでそんな曲を聴いたのは初めてで吃驚したし、泣きそうになるくらいうまかった。すごいよ、高橋。


 秋、僕たちはギターを置いて、一緒に外に出掛けたり、ベッドに潜り込んだりすることが多くなった。たまに、少し涼しくなった散歩道を歩いていると、どちらからともなく手を繋ぐ。手から伝わる温かさが僕を安心させる。ギターも楽しかったけれど、高橋のことをもっと知りたかったし、彼女にもっと近付きたかった。ひたすら、二人の時間が惜しかった。高橋の笑顔から、彼女もそう感じているのだと僕は思った。
 勿論、二人でギターの練習をすることもあったが、僕はギターを触るよりも高橋のきれいな鎖骨をなぞるほうが好きだ。骨格の綺麗な高橋。ベッドの中で少しうずくまりながら眠る高橋。彼女の細い指が僕の背中や胸を触る時、僕は息が止まりそうになる感覚を覚えた。



 だけど……。


 冬、僕はギターを全く弾かなくなった。外では綿雪が舞い、いろいろな寒さに怖気づいた僕は部屋に閉じこもるようになった。
 高橋には上質な恋人ができてしまった。僕たちはもう以前のように電話もしないし、メールもしない。高橋が何を考えて何をしているのかも分からない。ただの他人になってしまった。
 「心変わりなんて季節が変わるのと同じこと」なんて歌があったのを思い出す。そう。季節も人の心も移ろいゆくものだ。ピアノをやめた僕はギターを始め、ギターもやめた。どうしようもない僕は高橋を好きになって、高橋を諦めた。季節は誰に対しても同じように巡っていくけれど、人は色んな方向へと変化していく。僕は良いほうへと変化することができるだろうか。これから、何を始めよう。始められるのだろうか……。
 ステレオから、高橋の大好きだったアストル・ピアソラが流れた。哀しいけれど、とてもきれいだった。きっと、季節は誰にでも平等なんだ。