どこか悪いんですか

 これだけ広い敷地なのに、ベンチはどこも人、人、人で占領され、ああ、こんなところに来るんじゃなかった、と後悔し始めた午前九時。私は家から徒歩十五分の総合病院へ来ていた。新しく就職する会社へ提出するために、健康診断票を作成してもらわなければならないのである。
 看護士の言う通り、まずは耳鼻科から回ることにしたが、そこも病人で埋め尽くされていた。私は待合室の隅にほんの僅かなスペースを見つけ、移動する。
「あの、隣、よろしいですか?」
 灰色の品の良いジャケットを着た老人が、こくり、と頷いた。
 私はそこへ腰を下ろす。こんなところへ来てしまうと、自分まで具合が悪くなりそうだ。
「ドコカ、ワルインデスカ?」
 私の体がびくっとした。その音、いや、声が老人から発せられたものだと気付くのに少し時間がかかった。まるで、宇宙人の声みたいだったからだ。私は冷静を装って答える。
「いえ、就職するために、健康診断をしなきゃいけないんです」
 老人はにこにこと頷いた。手には小さな電動カミソリのような機械を持っている。
「ビックリシタデショウ? コレハ、コエヲダス、キカイ。『エレクトロラリンクス』デス」
 彼は喉ぼとけの辺りにその小さな機械を当てて、声を出している。その音の奥には、彼の声にならない音がひゅう、ひゅうと聞こえる。
「へえ、初めて見ました。すみません、変な反応しちゃって」
「デンワスルト、イタズラダト、イワレマス」
「ひどいですね」
「イントウガン、ノドヲ、キリマシタ」
「わあ。今は大丈夫なんですか?」
「コエ、イガイハ、ダイジョウブ」
「あの、機械を見せてもらってもいいですか?」
 老人は目を丸くした。しかし、その機械を私に手渡してくれた。それは私の手のひらくらいの大きさで、少し重かった。スイッチを入れたまま、老人の様子を窺うと、笑顔でこちらを見ていたので、私はずうずうしくも、そのまま機械を自分の喉に当て、声を出してみようとする。
「オ、オジイサン……」
 と、そこまで喋ると、喉が振動で擦れる感じがくすぐったくて、ごほごほごほ、とむせてしまった。老人は声にならない声で笑っている。近くを通った看護士に、ちらりと睨まれたような気がしたので、大人しくその機械を老人に返した。
「もぞもぞしました。これを毎回使うのは大変です」
「ソウデスネ。デモ……」
 老人はにっこりして言う。
「コレノ、オカゲデ、キミミタイナ、カワイイコト、ハナセマシタ」
 何と答えていいのか分からず、私は、へへへ、と曖昧に笑った。
 その時、奥の方から「瀬川さーん」と呼ぶ声がした。私は聴力検査のみで、すぐ終わるから先に呼ばれたのだろう。
「では、お先に。お体大事になさって下さいね」
 老人は、ひらひらと手を振った。私もぺこりとお辞儀をして、その場を去った。


 結局、健康診断の全項目を終えるのに、二時間もかかってしまった。その間、あの老人にはもう会えなかった。 
 病院にはいろんな症状の人がいる。各々が自分の病に向き合い、治療している。車椅子の人もいれば、頭に奇妙な半円を載せている人もいる。病院にいるからには、どこか悪くても、きっと前向きに治療を行っているのだろう。私も負けずに頑張らなきゃ、と診断票を握る。それには「再検査」という文字が書かれていた。