私は正常、あなたは?

 白い紙切れがローテーブルの真ん中に頼り無げに置かれている。それには「進級認定願」とあっさりした文字が。
 俺の目の前には色白の体に黒いワンピースを着た強気な目線の少女。彼女と向かい合うようにしてソファに座る。距離にして、60cmか。しかし、初対面という計り知れない距離がそこにはあった。

「母は恐らく1時間後にしか帰って来ませんが、いいんですか?」
 彼女の鋭い視線がまっすぐと。
「お母さんにはまた改めて話すよ。今日は君と話そうかと思って。お母さんがいる時には、ゆっくりと話も出来ないだろ?」
「母は教師を嫌っているので、基本的に教師という人間には私を会わせようとしませんから」
 俺が度々ここを訪ねても、いつも母親に追い返されるのは、そういう理由か。彼女があまりにも直接的に言うので、俺は苦笑いするしかなかった。
「それにしても、水河はどうして学校に来ないんだ?」
「橘先生も案外普通の人なんですね。他愛も無いことを聞くなあ」
「普通聞くだろ。出席日数足りないんだから、この書類出さないと進級できないんだぞ。自分のクラスの生徒が1日も学校へ来ていないという状況なら、不登校の理由を聞くのが当たり前。それから、その原因を取り除くのも俺の仕事」
「先生、生徒相手にしてると気がおかしくなりません?」
 俺は黙って彼女を見つめる。何が言いたいんだ?
「私が学校へ行かないのは、規則とか集団でいることとか…もう学校自体が窮屈だからです。まあ、こんなことは不登校の子供なら皆言ってることかもしれませんけど」
 彼女の青白い顔で紅い唇だけが饒舌に動く。
「でも、勉強は大丈夫か? 来年は受験もあるけど」
「勉強は自分で進めています。今は、現在完了も三平方の定理も完璧です」
 俺は少し驚く。本当に自分だけで勉強できているのか? もしそうなら、授業よりも先を進んでいるじゃないか。
「別室登校はどうだ? 出席日数を稼ぐためにも……」
 彼女はふうっと溜息をつく。
「私、兎に角、学校へは行きたくありません。別に苛められているわけでもありません。自分の意思です。私、自分と同じ年代の女の子が苦手なんです。噂話とか、あの人のことが好きだとか嫌いだとか……。キャーキャー騒ぐだけ。そんなに好きならキスでもセックスでもすればいいのにね。先生、14歳って、もう生殖器官は完成してるんですよ。子供を産める体になっているのに、いつまでも幼稚な言動って可笑しくないですか?」
 彼女は顔色とは不釣合いで一気に話す。俺は正直たじろいで、ピントの合わない返答をしてしまう。
「まあ……女子は噂好きだしなあ……」
「先生、いつも、学校で配られたプリントを封筒に入れて母に預けてたでしょう? あの中にこっそり手紙を入れててくれたのは先生でしょう? あの手紙みたいにもっといろんなことを話してよ」
 そんなこと言われても、手紙に書いていたことは「空が青くてすっきりだ」とか「給食にケーキが出た」とか仕様も無いことばかりだ。
「うーん……そんなこと言われてもなあ……。水河は最近、楽しいことあったか?」
「先生からの手紙を読んでいる時、楽しかったです。あとは、今かな?」
 彼女はにこりともせず、答える。
「先生、試してみませんか? 私、もう人間として、女性として完成してるんでしょうか? 先生は私のことなんて特に必要ともしていないのだろうけど、私は先生を必要としたい。してみたい。ねえ、先生、セックスしませんか?」
 俺はゆっくりと彼女に近付いた。そして、髪を撫でる。
「俺はお前のことを必要としてるのは当たり前だ。けれども、俺はお前とはセックスしない。それは、お前のことを大事にしてるからだ」
 彼女は少し涙目で、俺のことを見上げていた。



 それから数日後、水河は学校へ来るようになった。まあ、何とか女子とも上手くやっているようだ。しかし、その頃から俺は何となく水河だけでなく、他の女子にまで避けられるようになっていた。

 ある日、俺は呆然とする。廊下の隅っこにあるメッセージボードに書かれていた文字を発見したのだ。

「橘はホモ。もしくは、インポでセックスできない」

 成る程。でも、まあ、教師に犠牲はつきものだ。