ra_muffler

 1週間分の洗濯物を洗濯機の中に放り込むと、その中にとろーりと液体洗剤を入れた。さらにダウニーを入れるのも忘れずに。洗濯機の電源を入れ、開始スイッチを押す。水がゴーっと流れ込み、グイングインとドラムが回り出し、私はそれをニヤニヤと見つめる。服やタオルが無防備に水に回される様子が好きなのである。
 唐突にピーピーと音がして、ハッと我に返る。そろそろふたを閉めてくださいという合図である。私は着ていたタンクトップとパンツを脱いで、その中に放り込むと、ゆっくりとふたを閉じた。
 代わりに何か着るものはないかと、近くにあったものを身に着ける。


 部屋に戻ると、田中がゲームをしていた。私もその横に腰を下ろす。
「な、なんすか、先輩、その格好は……!」
「裸マフラーよ」
「え、まあ、見れば分かりますけど、なんで裸なんですか? なんでマフラーなんですか?」
「全裸はいつものことよ。家ではこうだし。田中が来てるから、一応何か着た方がいいかと思って、とりあえず、近くにあったマフラーを身に着けてみた」
「そ、そうなんですか」
「それより、お茶、頂戴」
 田中からペットボトルを受け取ると、こくこくこくと勢いよく飲み干した。ジャスミンの香りがした。田中は意外と乙女な飲み物が好きなのだな。
「なに見てるの」
「や、見てはいけないと思いつつも、つい……」
「この前さ、エリザベスと飲みに行った時、ローズミントカクテルを頼んだら、それを飲んだ彼女が『おばさんの味がする……!』って言ってたんだけど、ジャスミンティー飲ませたら、なんか言うかな?『トイレの味がする……!』とか言うかな?」
「さあ、どうでしょう」
「さっきから上の空だけど、どうした田中?」
「いやあ、裸マフラーは反則っす。エロいっす」
「でも、エロいことしたら、即パンチだからね」
「えー」
「私、人に触られるの嫌いなの。そういうことされるとストレスフルなの」
「えー」
「ほら、小さい時に風邪引いたりしたら、一般的に母親というものは背中をさすさすしたりするみたいだけど、私の家庭はそんなんじゃなかったからね。私が触られるの嫌だから、私が喘息で苦しんでると、母親は手かざしで治してくれたよ」
「なんですかそれ、気功とかですか?」
「んー。いや、ある種の宗教だね」
「え」
「まあ、田中も裸マフラーやりたかったらやれば? 首を温めると体全体が温まるから、裸でも寒くないよ」
「お断りします」
 そう言って、田中は私のポニーテールがマフラーにぎこちなく絡みついていたのを直すべく、マフラーをきちんと巻きなおしてくれた。
 その時、田中の冷たい指先が私の頬に少し触れたのだけど、私はそのことには特に言及しなかった。意外と心地良かったからだ。だけど、それは私だけの秘密にしておく。

青菜にコンスタンティノープル

「山田くん、バイトしたい」
「おお。ようやくニート脱出ですか」
「間違えた。バンドしたい」
「『バ』しか合ってないじゃないですか」
「この前さ、友達がライブやっててかっこよかったの。ジャズィーな感じで」
「ちょっと言い方に角がありますね。ジャジー
「『A列車で行こう』とかやっててさ。列車なんて走らない田舎に住んでるくせに」
「それはお互い様です」
「とにかく、私もバンドやろうと思ってさ」
「早速、メンバー集まったんですか」
「私と山田くん」
「少なすぎますよ」
「山田くんはサックスとトランペットとピアノとギターとハーモニカができるからいいじゃん」
「いっぺんに演奏できるほど器用ではありません」
「前に、プロのフルート演奏家が息継ぎなしで吹き続けてたのを見たことあるよ。あの技術を使えば」
「できません」
「じゃあ、好きな楽器担当していいよ」
「まあ、僕は何でもできるとして、鈴木さんは何を担当するんですか?」
「私はあおり担当です」
「え?」
「ほら、客をあおってテンション上げさせたり、失神させたり」
「楽器をやってください」
「じゃあ、ホーミー担当でいいよ。ねえ、そんなことよりさー、バンド名考えようよー」
「僕、乗り気じゃないのに、話が勝手にどんどん進んでいく……」
「お互いの好きな言葉をバンド名に使おう。で、青菜と何にしようか」
「え、どうして青菜が出てくるんですか」
「山田くん、落語が好きだから『青菜』好きでしょ?」
「ああ、旦那が「青菜をもってこい」と言ったら、奥さんが「鞍馬から牛若丸が出でましてその名も九郎判官」と言い、「義経」と返事した旦那がかっこよかったから植木屋もやってみた、というあの話ですか」
「簡単かつ分かりにくい説明ありがとう」
「僕は確かに落語が好きですけど、鈴木さんは何が好きなんですか?」
「うーん。カカポかな」
「鳥が好きなんですね」
「いや、音がいいんだよね。『かかと』でもいいよ。あー、でも、『はと』も捨てがたいなあ」
「『青菜とかかと』というバンド名は、とてつもなくダサいですよ」
コンスタンティノープルもお気に入りだよ」
東ローマ帝国の首都ですね」
「コンスタントにノーブルでもいいけど、英語分かんない人にはこの面白さが通じないよね」
「人の怒りをかう発言はやめてください」
「『青菜に塩』でいいか」
「ネガティブなイメージじゃないですか」
「じゃあ『青菜にコンスタンティノープル』でいいよ」
「それもイマイチですが」
「『青菜』とかけて『コンスタンティノープル』と解く」
「お、その心は?」
「菜(名)がいいな」
「してやったりの表情やめてください」
「山田くーん、座布団のはしっこをねずみにかじられてしまいましたあ」
「そんな報告もいりません」

太宰くんのこと

 後ろで、ヨーコちゃんの甲高い声がする。「真面目に掃除しなさいよー!」と言いながら、いつものようにバタバタと男子を追いかけているようだ。私はそんなことより、チョークのカラフルな粉が混ざり合わさる様子や窓枠にしがみ付くセミの抜け殻などに夢中だった。特に、バケツの中で雑巾をぐるぐるまわして渦を作るのが好きで、もしこの中にちっちゃくなった私が入ったらどんな動きをするかなあ、とかそういうことばかり考えていた。
「桐沢さん……」
 もごもごした声が聞こえるなあと思ったら、太宰くんだった。クラスの皆は私のことを「キリちゃん」とか「キリっち」とか呼ぶので、「桐沢さん」と呼ばれるのは何だか新鮮だった。
「なに」
「あの、僕の雑巾が……ないよ……」
「えっ。何で私に言うのだ。私は太宰くんのお母さんではないよ」
と言いつつ、廊下の雑巾干しを見に行ったけれど、太宰くんの十一番のところには何もかかっていなかった。
「他のとこ、探した?」
「……探した」
「うーむ」
 私は手洗い場の下や、掃除道具入れなども探した。そして、雑巾干しの横にあるバケツをよけた時、太宰くんの雑巾は出てきた。風でここに飛んだのかもしれない。
「あったよ」
 そう言って、彼に手渡した。
「あ、ありがとう」
 太宰くんがあまりにも素直にそう言ったので、私はびっくりした。だって、他の男子は何かしてあげても、お礼なんて言わずに茶化すだけだったから。



 太宰くんという少年は、大人しくて、成績は普通よりも少し下で、運動もイマイチだった。学級の中では印象が薄すぎて、誰からも話しかけられないかわりに、いじめられもしないという良いのか悪いのかよく分からないポジションだった。
 それに対して、私は名ばかりとはいえ学級委員をしていて、成績は割りと上位で、友達といることが多かったので、太宰くんとはあまり接点がなかった。ただ、彼のことを、あの太宰治と同じ苗字なんだなあくらいにしか思っていなかった。その頃の私は、太宰治の小説を読んだことはなく、何となく自殺に何回も挑戦したすごい人だというくらいの認識で、もしかしたら太宰同士、何か共通する陰鬱なものがあるのかなあと思ったりしていた。


 ある日、私は後ろの席の太宰くんから声をかけられた。プリントの演習中で、友達と喋っている人もいれば先生に質問している人もいて、割とフリーダムな時間だった。皆、私と太宰くんが話していても気付かない雰囲気。
「桐沢さん、消しゴムが……ない……」
「えっ。太宰くんの周りにはブラックホールでもあるのかい」
 太宰くんは気のない笑顔を見せていた。私なりのジョークが太宰くんには通じなかったようなので、仕方なく筆箱の中を探る。爪くらいのサイズの消しゴムがあった。私はもう一度、後ろを振り返り、今使っていた新品の消しゴムとちっちゃい消しゴムを持って、太宰くんに見せた。
「どっちがいい?」
「……こっち」
 小さいほうの消しゴムを選んだ太宰くん。さすが謙虚だ。
「じゃあ、それあげる。どうせ使わないし」
「え……、いいの? ありがとう」
「あとね、その方程式、二乗が抜けてるよ」
「あ、ありがとう」
 太宰くんの「ありがとう」は心許なくて、案外いいと思った。 


 それから、あれはバレンタインデーのことだった。私は吹奏楽部の先輩にチョコをあげたかったのだけれど、彼はとてもモテていて、帰りも女の先輩たちに囲まれていた。私はなかなか渡せなかったので、諦めて帰ることにしたのだった。
 そのまま持って帰るのも何だか癪で、校門の前には誰もいなかったし、お腹も空いていたので、袋を開けて白とピンクのマーブルチョコを食べてみた。すごく甘かったので、これを全部食べきれるだろうかと憂鬱になっていたところに、太宰くんが通りかかった。彼も部活帰りのようで、肩にラケットを下げていた。やはり、いつもの如く、一人で。
「あ……」
 こちらに気付いたようだった。
「今日、チョコもらった?」
「……ううん」
 太宰くんは苦笑いをしている。笑っている場合ではないぞ。私は、この甘ったるいチョコを太宰くんにあげようと決めた。
「これ、どうぞ」
「えっ、でも、学校でお菓子は……いけないって……」
「今日だけは学級委員の私が許す」
「そ、そう……」
「あげるよ」 
 私はそう言って、無理矢理、太宰くんに押し付けた。食べかけのチョコを。けれど、太宰くんは少し嬉しそうに笑った。
「あ、ありがとう」
 笑うな、太宰くん。それは先輩にあげるつもりのものだったのだ。お菓子に釣られちゃいけないよ。



 あれから、私たちは村を出て別々の高校に通った。私は村を出て、市内の進学校へ。太宰くんは隣町の商業高校へ。
 それから、ずっと会う機会はなく、彼のこともすっかり忘れていた。しかし、ついこの間、恋人が「太宰治の小説って面白いなあ」と言うので、私は初めて太宰の本を手に取ったところ、太宰くんのことを思い出したのだ。
 そこで、ヨーコちゃんに電話をかけて聞いてみることにした。彼女は、高校から違う学校へ進んだけれど、時々、メールをしたり電話をしたりする仲だ。彼女は村に残って、地元の銀行に就職したので、島のことなら彼女に聞けば分かるはず。
「あ、ヨーコちゃん。元気?」
「元気よー。どうしたの?」
「ちょっと聞きたいことあってさ」
 私は、少し緊張する。
「ねえ、太宰くんってまだ村に住んでるの?」
「え、ダザイ?」
「ほら、あの地味な感じの。中二の時、同じクラスだった」
「ああ!」
「思い出した?」
「あれ、キリちゃんは村を出てたから知らなかったんだっけ。彼、高校生の時、自殺しちゃったんだよ。私は隣の高校だったから、詳しくは知らないんだけどねえ。あ、マキが同じ高校だったからさ、知ってると思うけど」
「あ、そうなんだ……」
 私は、よく分からないまま、適当に話を終わらせ、電話を切った。
 太宰くんの中で、どんな変化が起こったのか、何を思って死んだのか、私には知る由もない。けれど、もし、私が同じ高校に行っていれば、何かしてあげられたのかな。例えば、探し物を見つけたり、お菓子あげたり、勉強教えたりとか。それが、彼の支えになるとは到底思えないけれど。
 だけど、きっと彼は嬉しいのか悲しいのかよく分からないような顔で「ありがとう」と言うだろう。優しかったから。
 小説には太宰くんの言葉や笑顔が載っているはずもないのに、私は太宰治の本をぱらぱらと捲った。あの「ありがとう」は、私の中で、今も残っている。

どこか悪いんですか

 これだけ広い敷地なのに、ベンチはどこも人、人、人で占領され、ああ、こんなところに来るんじゃなかった、と後悔し始めた午前九時。私は家から徒歩十五分の総合病院へ来ていた。新しく就職する会社へ提出するために、健康診断票を作成してもらわなければならないのである。
 看護士の言う通り、まずは耳鼻科から回ることにしたが、そこも病人で埋め尽くされていた。私は待合室の隅にほんの僅かなスペースを見つけ、移動する。
「あの、隣、よろしいですか?」
 灰色の品の良いジャケットを着た老人が、こくり、と頷いた。
 私はそこへ腰を下ろす。こんなところへ来てしまうと、自分まで具合が悪くなりそうだ。
「ドコカ、ワルインデスカ?」
 私の体がびくっとした。その音、いや、声が老人から発せられたものだと気付くのに少し時間がかかった。まるで、宇宙人の声みたいだったからだ。私は冷静を装って答える。
「いえ、就職するために、健康診断をしなきゃいけないんです」
 老人はにこにこと頷いた。手には小さな電動カミソリのような機械を持っている。
「ビックリシタデショウ? コレハ、コエヲダス、キカイ。『エレクトロラリンクス』デス」
 彼は喉ぼとけの辺りにその小さな機械を当てて、声を出している。その音の奥には、彼の声にならない音がひゅう、ひゅうと聞こえる。
「へえ、初めて見ました。すみません、変な反応しちゃって」
「デンワスルト、イタズラダト、イワレマス」
「ひどいですね」
「イントウガン、ノドヲ、キリマシタ」
「わあ。今は大丈夫なんですか?」
「コエ、イガイハ、ダイジョウブ」
「あの、機械を見せてもらってもいいですか?」
 老人は目を丸くした。しかし、その機械を私に手渡してくれた。それは私の手のひらくらいの大きさで、少し重かった。スイッチを入れたまま、老人の様子を窺うと、笑顔でこちらを見ていたので、私はずうずうしくも、そのまま機械を自分の喉に当て、声を出してみようとする。
「オ、オジイサン……」
 と、そこまで喋ると、喉が振動で擦れる感じがくすぐったくて、ごほごほごほ、とむせてしまった。老人は声にならない声で笑っている。近くを通った看護士に、ちらりと睨まれたような気がしたので、大人しくその機械を老人に返した。
「もぞもぞしました。これを毎回使うのは大変です」
「ソウデスネ。デモ……」
 老人はにっこりして言う。
「コレノ、オカゲデ、キミミタイナ、カワイイコト、ハナセマシタ」
 何と答えていいのか分からず、私は、へへへ、と曖昧に笑った。
 その時、奥の方から「瀬川さーん」と呼ぶ声がした。私は聴力検査のみで、すぐ終わるから先に呼ばれたのだろう。
「では、お先に。お体大事になさって下さいね」
 老人は、ひらひらと手を振った。私もぺこりとお辞儀をして、その場を去った。


 結局、健康診断の全項目を終えるのに、二時間もかかってしまった。その間、あの老人にはもう会えなかった。 
 病院にはいろんな症状の人がいる。各々が自分の病に向き合い、治療している。車椅子の人もいれば、頭に奇妙な半円を載せている人もいる。病院にいるからには、どこか悪くても、きっと前向きに治療を行っているのだろう。私も負けずに頑張らなきゃ、と診断票を握る。それには「再検査」という文字が書かれていた。

slow and steady wins the race

 お久しぶりです。元気にしていますか。

 中学生の時には、大変お世話になりました。
 私は本当に英語が嫌いで、中2になっても、3単元が全く理解できていないくらいでしたが、先生がいつも丁寧に教えてくれましたね。先生みたいに一人の生徒に対して、しっかりと向き合ってくれる人はなかなかいません。だから、嬉しかったです。
 それから、教育実習の時のスーツ姿は格好良かったです。とても素敵でした。密かに憧れていたんですよ。

 あれから、私は高校で英語をかなり勉強して、大学に行くことが出来ました。そして、途中でアメリカの大学に編入したんです。そこでは、英語はもちろんのこと、比較文化社会学などを勉強してきました。海外で暮らすというのは、学問以外のことも色々なことを経験でき、全てが勉強になりました。
 英語嫌いだった私からはとても想像できないでしょうね。
 でも、先生がいつも話してくれたアメリカやイギリスのことは、とても興味深く聞いていました。先生からしてみれば、私はぼーっとしているようにしか見えなかったかもしれませんが。
 先生のおかげで、外国に興味を持ち、嫌いなものが好きなものへと変わっていったのは、すごいことだと思います。

 それから、高校入学祝いに先生から頂いた財布は今でも大切に持っています。ありがとうございました。

 今回、手紙を書いたのは引っ越しの片付けをしていた時に、先生からの手紙を見つけ、懐かしくなったからです。そこには、何かあったら連絡するようにとご実家の住所が書かれていました。いきなり、こんな手紙を送ってしまい、ご迷惑だったらすみません。

 ところで、私は4月から中学校の教員になり、英語を教えています。今、私が生徒に教えることが出来るのも、先生のおかげだと思っています。
 先生は今、どこの中学校で教えていますか。いつの日か、一緒に教員として働くことが出来るといいですね。

 それでは失礼します。この手紙が無事、先生の元へ届くことを願います。そして、返事を頂けると嬉しいです。












 初めての生徒から届いた手紙はこういう内容だった。私は、大学生の時に家庭教師をしていたのだが、その時に生まれて初めて「先生」と呼ばれた優しい違和感を今でもはっきりと思い出す。私はとても楽しく教えていたのだが、まだまだ私の指導技術が未熟だったせいで、彼は第一志望には合格出来なかった。それでも、彼は「私立高校のほうが楽しそうだから頑張ります」と笑顔で話してくれた。私はいっぱい謝りたかったのに。そして、あの高校入学祝いの財布も私なりの罪滅ぼしだったのである。素直に喜ばれても困る。
 あの頃、彼はちっちゃくて、ポケモンの話とかクラスの女子の話とかをしてくれる可愛い生徒だったけども、今はどんな大人になっているのだろう。

 私が彼に教えたことは、すぐには彼に還元されなかった。しかし、彼の心に何かを残すことは出来て、それが数年後に形として表れた。
 私は生徒と接する時に、結果を期待してはいない。本当はそうあってはいけないのだろうけど。私はそうである。それでも、数千分の一くらいの確率で、人に影響を与えることが出来れば、やはり教師という仕事はいいなあと思う。モノは残せなくても、人を作ることが出来る。少なくとも、私が今すぐ死んでも、生徒の心にはほんのちょっとでも残ることは出来る。
 いつか、彼と一緒に仕事が出来るといいなあと思う。
 


 そのためには、まず、私は教員にならなければいけないけれども。
 

SSAW

 ギターかバイオリンを始めようと思った。
 挫折してしまったピアノを諦め、新しい何かを始めたかったのだ。本当は何でもよかった。しかし、未だに弦から離れられない自分もいる。
 迷った時は、高橋だ。彼女に相談してみると、「ギターにすればいいよ」と言ってくれた。「ギターなら弾き語りもできるし、きっと楽しいよ」
 高橋の声はいつでも優しい。


 春、僕は近くの古びた楽器屋で、手頃なギターを買った。黒いボディーがつやつやしていて、簡素なギター。何かを始めるには春が一番だと思う。活動が順調に進み出す春。僕は毎日、タブ譜とにらめっこしながら弦をはじいた。でも、僕の左手は思うように弦を押さえられなくて、すぐに指先が真っ赤になる。ピアノとは違って弦が指に食い込んでくるのだ。だけど、新しいことをマスターしていくのは、とても楽しいし、嬉しかった。
 数日後、高橋から電話があった。
「今、何してるの?」
「ギターの練習」
 僕はギターの弦を緩めながら答える。
「本当に買ったんだ?」
「そうだよ。高橋だって勧めたじゃん」
「上手になった?」
「全然。指がちぎれそう」
「暇になったら、教えてあげようか」
「え。ギター弾けるの?」
「ちょっとだけ」
 高橋は電話の向こうでくすくすと笑っている。僕はいつも、彼女が何を考えているのか分からない。


 夏休み、高橋はギターを教えるために僕の部屋へやって来た。彼女は一生懸命教えてくれて、部屋は冷房がかかっているというのに、汗をかいてしまうほど僕たちは必死になった。ピアノが弾けた僕は、ギターに関しては全くの劣等生だ。高橋に教えられても、相変わらず音がぼよんとしていて悲しくなる。ぽろん、ぼよん、どよん。
 それに比べ、高橋の音は鋭い。「ちょっとだけ」弾けるというものではなく、話を聞けばギターコンクールに出場したり、バイトでギター教室の講師をしたりしていたそうだ。
「どうして皆にはギター弾けるって言わないの?」
「ギタリストを諦めてしまったからね。もう今更、恥ずかしいよ」
 高橋の秘密を独占できるのは嬉しい。しかし、彼女の少し寂し気な顔を見て、何となく居た堪れなくなった。そんな顔するなよ。僕は図々しくもリクエストしてみる。何でもいいからさ、と迷う高橋にギターを押し付けた。僕は、それまで、高橋がまともに曲を演奏するのを聴いたことがなかったのだ。
「……じゃ、適当に」
 そう言って、高橋はギターを受け取った。彼女が弾いたのは、歌謡曲でもなく「コンドルは飛んでいく」でもなく、ミッシェル・カミロのような曲だった。即興。ギターでそんな曲を聴いたのは初めてで吃驚したし、泣きそうになるくらいうまかった。すごいよ、高橋。


 秋、僕たちはギターを置いて、一緒に外に出掛けたり、ベッドに潜り込んだりすることが多くなった。たまに、少し涼しくなった散歩道を歩いていると、どちらからともなく手を繋ぐ。手から伝わる温かさが僕を安心させる。ギターも楽しかったけれど、高橋のことをもっと知りたかったし、彼女にもっと近付きたかった。ひたすら、二人の時間が惜しかった。高橋の笑顔から、彼女もそう感じているのだと僕は思った。
 勿論、二人でギターの練習をすることもあったが、僕はギターを触るよりも高橋のきれいな鎖骨をなぞるほうが好きだ。骨格の綺麗な高橋。ベッドの中で少しうずくまりながら眠る高橋。彼女の細い指が僕の背中や胸を触る時、僕は息が止まりそうになる感覚を覚えた。



 だけど……。


 冬、僕はギターを全く弾かなくなった。外では綿雪が舞い、いろいろな寒さに怖気づいた僕は部屋に閉じこもるようになった。
 高橋には上質な恋人ができてしまった。僕たちはもう以前のように電話もしないし、メールもしない。高橋が何を考えて何をしているのかも分からない。ただの他人になってしまった。
 「心変わりなんて季節が変わるのと同じこと」なんて歌があったのを思い出す。そう。季節も人の心も移ろいゆくものだ。ピアノをやめた僕はギターを始め、ギターもやめた。どうしようもない僕は高橋を好きになって、高橋を諦めた。季節は誰に対しても同じように巡っていくけれど、人は色んな方向へと変化していく。僕は良いほうへと変化することができるだろうか。これから、何を始めよう。始められるのだろうか……。
 ステレオから、高橋の大好きだったアストル・ピアソラが流れた。哀しいけれど、とてもきれいだった。きっと、季節は誰にでも平等なんだ。

 空気が少しだけ透明になってきて、生きやすい季節になったのだなと私はしみじみ感じ、ペットボトルの紅茶をごくりと一口飲んだ。公園の木々はまだ少ししか色付いていないけれど、その葉はカサカサと音を立てそうな色に変化しつつある。公園には、小さな子供を連れた女の人と昼休み中のサラリーマンのような男しかいなかった。私はベンチに座り、ぼんやりとその様子を眺め、こんなに自分の時間を持て余すのは、実は喜ばしいことであると思った。
 私は、公園の裏にある小さな老舗のハンバーガー屋でさっき買ったトマトチーズバーガーをがさごそと紙袋から出すと、包み紙を丁寧に捲り、一口がふっとかじった。牛肉の香ばしさとチーズのとろりとした濃厚さを久し振りに美味しいと感じ、私、生きてるなあと思った。そういえば、以前、働いていた学校の主任もこの店のバーガーが好きだったなあと思い出す。放課後の生徒指導の合間に主任と「いつか一緒に食べに行きたいですね」とよく話していた。ほんの半年前のことがもう随分昔に思える。



 ある日の休み時間、「もうすぐ授業始まるから教室行きなさい」と生徒を急かしながら階段を上がっていると、後ろから主任に声をかけられた。
「崎村先生は、いつも笑顔で生徒対応していて、感心しますね」
「いえ……そんな……」
 私は笑顔で接することができていたのだろうか。
「崎村先生は、この学校、楽しいですか?」
「楽しいです」
 あの時、私は考えることなく、咄嗟に答えてしまった。今考えてみると、毎日生徒の暴力を止めながら、青あざをつくり、血を流し、それでも楽しいと言えた私は何だったのだろうと思う。
「あなたのその笑顔で、随分生徒たちも救われていると思いますよ」
 主任は少し疲れた笑顔で言ってくれた。彼は、たまたま席が隣だった私によく話しかけてくれた。先輩よりも三つ年下なのに自分が主任になってしまって戸惑ったこと、生徒たちの暴力沙汰にうんざりしていること、毎朝学校に行くことに少し憂いを感じていることなど、本当は上司が私のような下の下にそんなことを言ってはいけないのだろうが、私は彼のその素直さに惹かれた。彼は上手に他人に弱さを見せていた。私はそれまで、教師とは「完璧であること」だと思っていた。しかし、主任の人間らしさは私を安心させた。
 そして、私はその時、主任に何か言葉を返したはずだ。何と言ったのだっけ……。
 私はバーガーが崩れないように、トマトをかじった。ううむ。私は……主任の……。



「主任のキュートさも素敵です」

 私がそう言った時、主任はそれまでの疲れた顔ではなく、いつもの主任らしい顔で声を出して笑っていた。確かに笑顔で救われることもあるのかもしれない。私は実際、生徒の笑顔にも主任の笑顔にも救われていたのだ。主任は今も、あの学校で頑張っているのだろうか。


 この美味しいバーガーを、主任にも食べさせてあげたいなあと思った。
 私は食べ終わると、包み紙をまあるく丸めて、ゴミ箱へと放り投げた。それはきれいな弧を描くと、ぽすんと音を立ててゴミ箱の中に落ちた。


 そろそろ働こうかなと思った。