太宰くんのこと

 後ろで、ヨーコちゃんの甲高い声がする。「真面目に掃除しなさいよー!」と言いながら、いつものようにバタバタと男子を追いかけているようだ。私はそんなことより、チョークのカラフルな粉が混ざり合わさる様子や窓枠にしがみ付くセミの抜け殻などに夢中だった。特に、バケツの中で雑巾をぐるぐるまわして渦を作るのが好きで、もしこの中にちっちゃくなった私が入ったらどんな動きをするかなあ、とかそういうことばかり考えていた。
「桐沢さん……」
 もごもごした声が聞こえるなあと思ったら、太宰くんだった。クラスの皆は私のことを「キリちゃん」とか「キリっち」とか呼ぶので、「桐沢さん」と呼ばれるのは何だか新鮮だった。
「なに」
「あの、僕の雑巾が……ないよ……」
「えっ。何で私に言うのだ。私は太宰くんのお母さんではないよ」
と言いつつ、廊下の雑巾干しを見に行ったけれど、太宰くんの十一番のところには何もかかっていなかった。
「他のとこ、探した?」
「……探した」
「うーむ」
 私は手洗い場の下や、掃除道具入れなども探した。そして、雑巾干しの横にあるバケツをよけた時、太宰くんの雑巾は出てきた。風でここに飛んだのかもしれない。
「あったよ」
 そう言って、彼に手渡した。
「あ、ありがとう」
 太宰くんがあまりにも素直にそう言ったので、私はびっくりした。だって、他の男子は何かしてあげても、お礼なんて言わずに茶化すだけだったから。



 太宰くんという少年は、大人しくて、成績は普通よりも少し下で、運動もイマイチだった。学級の中では印象が薄すぎて、誰からも話しかけられないかわりに、いじめられもしないという良いのか悪いのかよく分からないポジションだった。
 それに対して、私は名ばかりとはいえ学級委員をしていて、成績は割りと上位で、友達といることが多かったので、太宰くんとはあまり接点がなかった。ただ、彼のことを、あの太宰治と同じ苗字なんだなあくらいにしか思っていなかった。その頃の私は、太宰治の小説を読んだことはなく、何となく自殺に何回も挑戦したすごい人だというくらいの認識で、もしかしたら太宰同士、何か共通する陰鬱なものがあるのかなあと思ったりしていた。


 ある日、私は後ろの席の太宰くんから声をかけられた。プリントの演習中で、友達と喋っている人もいれば先生に質問している人もいて、割とフリーダムな時間だった。皆、私と太宰くんが話していても気付かない雰囲気。
「桐沢さん、消しゴムが……ない……」
「えっ。太宰くんの周りにはブラックホールでもあるのかい」
 太宰くんは気のない笑顔を見せていた。私なりのジョークが太宰くんには通じなかったようなので、仕方なく筆箱の中を探る。爪くらいのサイズの消しゴムがあった。私はもう一度、後ろを振り返り、今使っていた新品の消しゴムとちっちゃい消しゴムを持って、太宰くんに見せた。
「どっちがいい?」
「……こっち」
 小さいほうの消しゴムを選んだ太宰くん。さすが謙虚だ。
「じゃあ、それあげる。どうせ使わないし」
「え……、いいの? ありがとう」
「あとね、その方程式、二乗が抜けてるよ」
「あ、ありがとう」
 太宰くんの「ありがとう」は心許なくて、案外いいと思った。 


 それから、あれはバレンタインデーのことだった。私は吹奏楽部の先輩にチョコをあげたかったのだけれど、彼はとてもモテていて、帰りも女の先輩たちに囲まれていた。私はなかなか渡せなかったので、諦めて帰ることにしたのだった。
 そのまま持って帰るのも何だか癪で、校門の前には誰もいなかったし、お腹も空いていたので、袋を開けて白とピンクのマーブルチョコを食べてみた。すごく甘かったので、これを全部食べきれるだろうかと憂鬱になっていたところに、太宰くんが通りかかった。彼も部活帰りのようで、肩にラケットを下げていた。やはり、いつもの如く、一人で。
「あ……」
 こちらに気付いたようだった。
「今日、チョコもらった?」
「……ううん」
 太宰くんは苦笑いをしている。笑っている場合ではないぞ。私は、この甘ったるいチョコを太宰くんにあげようと決めた。
「これ、どうぞ」
「えっ、でも、学校でお菓子は……いけないって……」
「今日だけは学級委員の私が許す」
「そ、そう……」
「あげるよ」 
 私はそう言って、無理矢理、太宰くんに押し付けた。食べかけのチョコを。けれど、太宰くんは少し嬉しそうに笑った。
「あ、ありがとう」
 笑うな、太宰くん。それは先輩にあげるつもりのものだったのだ。お菓子に釣られちゃいけないよ。



 あれから、私たちは村を出て別々の高校に通った。私は村を出て、市内の進学校へ。太宰くんは隣町の商業高校へ。
 それから、ずっと会う機会はなく、彼のこともすっかり忘れていた。しかし、ついこの間、恋人が「太宰治の小説って面白いなあ」と言うので、私は初めて太宰の本を手に取ったところ、太宰くんのことを思い出したのだ。
 そこで、ヨーコちゃんに電話をかけて聞いてみることにした。彼女は、高校から違う学校へ進んだけれど、時々、メールをしたり電話をしたりする仲だ。彼女は村に残って、地元の銀行に就職したので、島のことなら彼女に聞けば分かるはず。
「あ、ヨーコちゃん。元気?」
「元気よー。どうしたの?」
「ちょっと聞きたいことあってさ」
 私は、少し緊張する。
「ねえ、太宰くんってまだ村に住んでるの?」
「え、ダザイ?」
「ほら、あの地味な感じの。中二の時、同じクラスだった」
「ああ!」
「思い出した?」
「あれ、キリちゃんは村を出てたから知らなかったんだっけ。彼、高校生の時、自殺しちゃったんだよ。私は隣の高校だったから、詳しくは知らないんだけどねえ。あ、マキが同じ高校だったからさ、知ってると思うけど」
「あ、そうなんだ……」
 私は、よく分からないまま、適当に話を終わらせ、電話を切った。
 太宰くんの中で、どんな変化が起こったのか、何を思って死んだのか、私には知る由もない。けれど、もし、私が同じ高校に行っていれば、何かしてあげられたのかな。例えば、探し物を見つけたり、お菓子あげたり、勉強教えたりとか。それが、彼の支えになるとは到底思えないけれど。
 だけど、きっと彼は嬉しいのか悲しいのかよく分からないような顔で「ありがとう」と言うだろう。優しかったから。
 小説には太宰くんの言葉や笑顔が載っているはずもないのに、私は太宰治の本をぱらぱらと捲った。あの「ありがとう」は、私の中で、今も残っている。