inside out

 先週の放課後、日に日に痩せ細っていく私を見て心配した国語の先生が「澤井さんは一人暮らしだから、あまり食べてないでしょ? 私がご馳走するから、日曜の昼にでも遊びにおいで」と家に招待することを約束した。

 そして、今、私は彼女の家のソファの上で、彼女の手料理を待ちながら、ぼんやりと時を過ごしている。ある一つのことを除けば至って普通の光景である。数メートル先に、国語の先生の夫がいることを除けば。
 実は、彼は精神病を患っていて、障害者年金を貰っている。画家。料理は苦手。人と話すことは好きだが、対人関係を保てない。ということを、今さっき、国語の先生から聞いた。それだけの情報で、彼にどう接すればいいのか、私には分からなかった。しかし、そんな私にお構いなく、彼のほうはキャンバスに向かい、何やら夢中で色を重ねている。そして、私はソファの上で小さく体操座りをしている。

「あ、あ……、存在に気付かなかった」
「ごめんなさい。澤井といいます。熱中しているようなので、話しかけるのも何だかなあと思って」
「まるで、借りてきた猫のようだ」
「よく言われます」
「澤井先生は何を教えているのですか?」
「英語です」
「英語は苦手です」
「実は私もです」
「澤井先生は、絵画は好きですか?」
エドゥアール・マネが好きです」
「あれは金持ちの道楽だ」
「……」
ロココとか好きですか?」
「よく分かりません」
「澤井先生は授業するのは緊張しますか?」
「しません。もう慣れているので」
「じゃあ、今は緊張していますか?」
「え」
「眼が泳いでますよ」
「あ、気のせい、だと思います……」
「そうですか。変だなあ」
 彼はそう言うと、私に背を向け、またキャンバスに向かい合った。そして、作品を進めていく。その作品へちらりと目を移すと、キュビズムのように見えたが、私には抽象画はよく分からない。ただ、群青の世界がそこにあった。彼の世界。まるで、死の世界。
 私はソファの上に寝転び、死体の気分になる。周りには油絵の絵の具の匂いと、微かにキッチンからの匂い。
 彼のどういうところが病気なのか詳しく知らない。実は私のほうが病気なのかもしれない。何が普通で何が異常なのか私には分からない。そのボーダーラインを引くのは私ではなく、彼でもなく、社会なのだ。
 自分が少しだけ透明になった気分になる。