as is often the case with me

隣の教室から「うぇーばー」という単語が聞こえてきたので、マックス・ウェーバーとかエミール・デュルケムが思い浮かび、手元のウィリアムソンが疎かになった。今となっては、全く彼らが何を成し遂げたのか説明することは出来ないが、その頃の私は只管彼らの文献を読み、あの人と少しでも話題を共有できるように、よく分かりもしない社会学をひっそりとノートに綴り、自殺論やプロテスタンティズムという言葉さえも甘い響きに感じ、分からないことが分からないまま、彼に質問をするのだった。愚かな無知と自己肯定。記憶は匂い。心理的にも身体的にも、一定の距離間がある故に、その人の全体的な像は思い出せても、細やかな所作が思い出せない。その人の匂いは思い出せなくても、部屋のゆったりとした心地良い匂いは思い出すことは出来る。あの空間は、私自身ではなく、あなた自身でもなく、ある程度制御されている時間だった。自分に自信が無いのと、他人を批判することは違う。しかし、社会では、健全な批判力が確かに必要とされているのだ。自分にそれが確かに実存するのかは分からない。ノートに書く言葉は変化する。あの頃はウェーバーで、今はロジャーズで、書き留められたものは記憶に必ずしも残るとは限らない。記銘。無意味に言葉だけが連なって、最後にはそこに存在することさえも忘れられる。言葉は同等ではない。勿論、私とあなたも同等ではなかった。言うまでも無く。