自殺論

「死にたい…」

 夜道を二人で歩いていると、ヤツは俺にそう言った。
 その時、地面にのびているヤツの影が、薄く消えかかっているように感じられたのは気のせいだろうか。

「おいおい、冗談だろ。本当は、死のうなんてこれっぽっちも思ってないだろ。その証拠に、さっき一緒に夕飯の焼肉をめいっぱい食ったじゃないか。お前、実際に死のうという行動を取ったことあるのか?
 大体、『死にたい』なんて言ってるヤツは世の中にはたくさんいるが、それは心から思って発している言葉ではないと俺は思うよ。それは一時の気の迷いか、自分に酔いたいだけ、若しくは陰鬱な感じを醸し出したいだけだろ。本当に死にたいと思っているなら、まずは飯を食わなきゃいいし、寝なきゃいい。風邪引いても薬とか飲まなきゃいい。自分の体を甘やかす行動というものを一切断ち切りゃあいい。
 人の命は尊いだとか自殺は良くないだとか、そういう一般論があるがな、俺は何かそういう類の話に虫唾が走る。でもそれ以上に、お前みたいな自殺願望者にも嫌気が差すよ。単にお前は甘えてるだけだ。死ぬっていうのは、案外体力がいるんだぜ。 
 俺は一回死にかけた経験があるから言わせてもらうけどな、生と死の狭間って難しい位置なんだ。生きるにはそれなりの体力が要るが、死に至るまでも体力がいるんだ。体は本能的に生きようとするからな。その苦しくて辛い中途半端な位置から、生か死のいずれかに移動するっていうのは、凄く体力を使うんだ。 
 弱った時に死の位置へ移動するのが、それ程きついのなら、今の丈夫な状態から、急に死の位置へ移動するとなれば、かなりの苦痛が伴うってわけだ。  
 だから、死にたいなんて、本当は思っても無いんだったら、口にするなよ。論理的じゃないしさ」 


 俺がそこまで口にしたところで、急にヤツが俺に抱きついてきた。正確に言えば、全体重を俺に任せてきた。何だ、俺の話に感動でもしたのかコイツ、と思って少し笑った。  
 しかし、そうではなかった。俺は何だか腹に鈍い痛みと生温さを感じ、両手でヤツを押し返した。ヤツの手は赤く染まっていた。そして、俺の腹には刃物が深く突き刺さったままだった。 
 俺は地面にゆっくりと落下した。体中の血液が、ドクンドクンと物凄い勢いで切り口から出血していくのが分かる。これは……?
「お、おい……、早く、救急車を呼んでくれよ……。血が……。い、痛ぇよ……」
「本当だ。苦しんでいるのに、なかなか死なない。なかなか死ねない」  
 俺はぼんやりとした意識の中で、ヤツの影を見た。やけに黒々して見えたのは気のせいだろうか。