「予習中? 少しお邪魔して良い?」
 私は英文学のテキストから顔を上げ、右手にシャープペンシルを持ったまま、ぽかんと声の主を見つめる。見覚えのある顔。同じ講義を受けている人。背中がピンとしていて首から肩のラインが素敵な人。でも、今まで話したことはない人。
「え……?何か用?」
「うん。ちなみに芳野さんとは今日初めて話をするよね? 俺、水江。別に怪しいものではないから安心して」
 彼はにこりとして、私の前の席に腰を下ろす。手に持っていたバッグを私だけが座っていた4人掛けの大きなテーブルに載せて。
 何で私の名前を知っているんだ……?
「同じ講義を取ってるんだ。君の名前を知ってるのは英文学の授業でよく指名されるから覚えちゃった」
 心の声を聞かれたかと思って吃驚した。でも、確かに英語を日本語に訳さなければならない場面では、毎回のごとく私は当てられる。教授には私の顔がぼーっとしているように見えるのかもしれない。
「君がよく指名されるのは多分、芳野さんが毎回予習をきちんとやってきているからだろうね。他の人に当てると時間の無駄になっちゃうし」
「うーん、そうかなあ……」
「それに、僕は君の訳し方、というか言葉はやさしいと思うんだよね」
「易しい?」
「easyではなくてgentlyのほうね。心地が良い言葉を使っているよ。ゴールズワージーの『林檎の樹』は懐かしさを感じさせるし、サキの『話し上手』は優しい言葉が逆に残酷さを引き立てる」
 そこまで言うと彼は満足げに私を見据える。よく私がその作品を訳したことを覚えているなあと思った。適当に言っているのでは、とちょっと疑いもした。それにしても、このさっぱりしない平凡な私の名前を覚えてくれていることが嬉しかった。
「ど、どうも…ありがとう……。褒めてくれてくれてる……のかな……?」
「うん」
 彼はまあるい目で私のことをじっと見つめる。彼のふっくらとした唇は閉じたまま。もっと話して欲しいと思う。声を聞かせて。
「で、今日の分の予習、写させてもらえる?」


 これが私と彼の出会い。