記憶の個室と昇華の問題

 目の前の色は鮮やかで、掴み取れるほど意識していられるのに、少し過ぎて去ってしまうと、もうあやふやで霧に傾いている。

 俺は文字をひたすら綴っていた手を休め、ふとカレンダーを見た。既に9月も終わりだった。
 あっという間に暑い季節も過ぎ行き、秋が来る。夏バテで体が常に気だるい感じがしていたが、ようやくそれからも解放される。
 そこで、俺はカランと鉛筆を置いた。
 はて、俺は8月に何をしただろう。確か、夏といえばキャンプだと職場の仲間が言い、皆で集まったはずなのだが……。そういえば、誰が言い出したのだろう。その名前が思い出せないばかりか、その職場の仲間の顔さえも今はぼんやりとして出てこない。
 疲れているのだな。俺は休憩を取ろうと、机から離れベッドに倒れこむ。
 そういや最近、仕事ばかりで疲れて、友達に全然連絡を取っていない。やつらは元気だろうか。
 そこで、一瞬、呼吸が止まる。目の前が溶ける感覚。
 やつらって……誰だ? 俺の友達の名前は何だった? 俺の大学時代の友達が駄目なら、高校時代の友達だ。高校? 俺は高校に通っていたか? 記憶が無い。中学の頃はどうだ? 小学の頃は? それ以前は?
 全く過去のことが思い出せなくなっていた。何故だか分からない。
 いや、落ち着け。別に過去のことが思い出せなくなっても生活に支障が出るわけではない。現に、今は手に職を持ち、金を稼ぐことが出来るではないか。名前と金があれば何だって出来る。ん?名前……?。
 いや、待てよ。まさか、そんなことはあるまい。

 俺は誰だ。

 気付きたくない焦燥感に腕を掻き毟る。すると、そこからは何か液体のようなものが漏れてきた。そして、掻き毟った指は少し変形している。
 どうなっているんだ。俺に一体何が起こっているんだ。俺は思わず壁に頭を叩きつける。

 すると、どうだ。俺の記憶どころか俺の世界までが消えてなくなってしまった。