賞味期限はおこのみで

 気付くのが遅かった。当たり前だけれども、私には見えない世界があって、私に構わず日々変化している。私だけがそれに気付かずに、ぽつんと残されていた。もっと早くに消えてしまっていれば、傷付かなくていいこともあった。そして、何も知らないままだったのかもしれない。
 私が「死にたい」と彼に伝えた時、彼は表面上では引き止めはしたものの、表情は明るかった。そこで、私は決心した。
「その睡眠薬は効くのかな? 苦しまないといいけど……」
 彼はのんびりした声で言う。
 私は少し焦りながら、手のひらに持てるだけ白い錠剤を。彼は時計をちらりと気にしながら、透明なグラスに冷たい水を。指や腕がとても優雅で、その鮮やかな注ぎ様を見ていると、ふと思う。もし、この人を本当に好きになれていたなら、何かが変わっていたかもしれない、と有り得ないことを今更。
 彼は水がたっぷり入ったそのグラスのひとつを私のほうへ丁寧に差し出す。
「慌てて飲まなくていいよ。ゆっくりでいいから。とは言っても、俺には約束があるから、十分以内で済ませてほしいのだけれど」
「奥さんと会うの?」
「まあ……ね」
 心の中で何かが渦巻く。彼は私と二年以上も関係を持ちながら、やはり彼女を選んだ。その結果として、こうやって私に死を急かす。もう何もかも取り返しがつかないのだと気付く。人の愛情なんて永久には続かない。
 私は一気に錠剤を喉の奥に流し込む。思ったよりも緩やかに胃に沈んでゆく。冷たいミネラルウォーターが透明に喉を潤す。
 私は彼の目を真っ直ぐ見つめて言う。
「お願い。最後にキスして……」
 そのまますぐに部屋を出て行くかと思ったら、彼はゆっくりと顔を近付けて来た。目を瞑ってそっと。唇に柔らかい気配が。
 私は彼を真っ直ぐ見つめる。
「……ありがとう」
 すると、彼はグラスの水で自らの唇を濡らし、すぐさまさっきの気配を消し去ろうとしていた。そして、すっと立ち上がり部屋から出て行こうとする。
 その瞬間、彼の体が崩れだす。喉の辺りを掻き毟り、のた打ち回る。物凄い勢いで転げている。何か言っているが、それはもう呻き声にしか聞こえなかった。
 私はその様子を傍らで見下ろしていた。私はキスの際に只、グラスに薬を注いだだけ。
 私が死ぬのは、彼がいなくなった後でも遅くはない。私はさっき飲んだ白い錠剤の瓶をいつものサプリメントが並んだ棚に戻す。愛情は永久に続かなくとも、憎しみは絶っておかないときっと永久に続くんだ。
 さて、眠ろうか。