音に揺らいで響いて

 ドアを開けると水の滴る彼が居た。

「吃驚した」
「いや、俺の家だから居るに決まっているだろう? 吃驚されても困る」
「そうじゃなくて、いきなり裸だから」
「裸じゃない。タオル巻いてる。どうぞ、いらっしゃいませ」
「うん」
 私は下半身にタオルを巻いた坂木に戸惑う。こっそりと彼の体を確認する。普段は細身に見えた体も、しっかりと筋肉が付いていて、腹筋が割れている。男の人だ、と当たり前のことを感じる。靴を脱ぐと、部屋へと案内された。
「朝はサークルのやつらとテニスやってて、さっき帰ってきたんだ」
「折角の休みの日なのにごめんね。明日、試験だからどうしても指動かしたくて」
「いいよ、気にしなくて。今日、大学はTOEICか何かの会場になってるんだっけ? 俺も今日は昼からは暇だし」
 部屋の片隅にピアノが置いてあった。この部屋は防音が利いているのだろうか。ここでは外の音が聞こえない。
「俺、髪乾かしたりしてるから、自由に弾いてて」
「ありがとう」
 私はハノンをバッグの中から取り出し、早速練習を始める。何だか緊張して上手く指が動かなかったが、それから暫くウォーミングアップをしてから、ショパンマズルカを練習しようと楽譜を捲る。
 弾きながら、やっぱり坂木はお金持ちなのだなと考える。一人暮らしなのにピアノもあるし、こんな立派なマンションにも住んでいるし。やっぱり来なければ良かったかなと思う。いくら同じピアノの講義を受講しているからといって、いつもとは違って見えた「男の人」である坂木にちょっと動揺している。
 ぼんやり弾いていたら、いきなり後ろから頭をぽすっとやられた。
「何するのよ」
「ぼーっとするなよ。曲が平坦になってる」
「どうせ私は坂木と違って表現力豊かじゃないし、のぺーっとしてるもん」
「そういうんじゃなくて、只単に心が入ってない」
 むっとして彼を睨む。
「じゃあ坂木が弾いてみてよ。弾けるの?」
 私が挑戦的に言うと、坂木は無言で椅子に座る。私は彼にその譜面を見せる。彼は少し譜面を覗いた後、指を動かし始めた。
 言うんじゃなかった、と思った。彼の指の動きはとても綺麗だった。うっとりするほど。そして、彼のテクニックは授業でも聞いて分かっていたはずなのに、やはりリズムの良さや力強さ、メランコリックな部分が引き立っていた。
 彼は弾き終わって、にやりと言う。
「どう?」
 私は悔しくて、黙っていた。
「お前はマズルカみたいなエキゾチックな曲や激しい曲は似合わないねえ」
「そうかもね……。でも坂木は凄いよ。何でも器用に弾きこなすから」
 私は、はあっと溜息を付く。そんな私を見て、坂木はもっと貶しに入るかと思ったら、そうではなかった。
「でも、お前のノクターンとか好きだよ。安らぐ気がする」
 坂木に褒められたのは初めてな気がして、彼を見つめる。
「俺はピアノ弾いててもあんまり心は休まらないからなあ。不安定になっていくような感じだし」
 彼にしては珍しく弱気なことを言う。変な坂木。
「坂木のピアノは良いよ。指使いとかめちゃくちゃだけど、聴いてると何か揺さぶられるし」
 お互いのピアノのことを言うのは、これが初めてだった。
 急に坂木は手で私を引き寄せると、私にキスをした。唇が思ったよりも温かくて気持ち良かった。
「俺がお前のピアノを心地良いと思うのは、お前のことを好きだからかもしれない」
 坂木は微笑んで、私の頭を撫でた。私はじっと大人しくしていた。
 そのうち、坂木は私の頭に置いていた手を顔へ首筋へ肩へと移動してきた。撫でられるのは心地良い。心が潤む感じがする。私に足りなかったのはこういうものなのかな、とぼんやり思う。
 そして、溜息に温度が増した時、坂木の指は私を奏でるのかもしれない。私は今それを望んでいる。