自分の境界

 クライアントが自殺を図った。
 事象だけ見つめれば、このことはもう四度目なので、またあのクライアントか、と同僚たちは思ったかもしれないが、私にはひとつだけ気になることがあった。それは、自殺の原因が私の言葉に起因している、ということだ。本人が病室に於て、そう呟いていたらしい。しかし、私には、何も思い当たる節が無かった。唯一の救いが、四度目の自殺も未遂に終わったということであった。
 この仕事をしていれば、こういう事態も起こり得るということは肝に銘じていたのだが、実際、自分の身に起こってみると、少し、心のバランスが崩れてしまった。
 そして、こんな時に限って、他のクライアントから苦情を受けるのだった。いつもなら、軽く受け流すところを、今日は何か心に引っ掛かった。
「結局、あんたは平等と口では言ってるが、俺のことを下に見て差別してるんだろう。そうでなきゃ、こんな仕打ちはない。たかが一人の患者を救えないで、他を救おうなんて浅ましい。出来るわけがないだろうが」
 昔、恋人にも同じようなことを言われたのだった。
「俺一人救えないのに、カウンセラーになって他人を救おうなんて傲慢だよ。君の性格の悪さで、カウンセラーが務まるわけがない。只の偽善だ」
 仕事のことで心が乱されたのは、久し振りだった。このような場合、誰かに相談したいと思ってはみても、一体誰に相談していいのか分からなかった。
 家に帰っても、ソファの上に一人寝転び、ぼんやりするだけで、気力が無かった。私は、自分の言葉が人の人生を左右する事実に畏れていた。人の為を思って行動していることが、実を結ばないどころか、返って悪化を引き起こしたことに、茫漠とした心持ちに成る。
 ふと思い出したように携帯電話を手に取り、実家に電話してみる。十秒程コールすると、相手が出た。
「はい。新井です」
「もしもし」
「あら、優季。珍しいわね。何かあったの?」
「別に。何となくかけてみただけ」
「そうなの?」
「……うん」
「まあ、何かあってもすぐに立ち直る気丈さがあなたの長所だから、大丈夫でしょうけど」
「何それ。そうなのかな」
「そうよ。だから私も安心して暮らしていけるの」
 母はくすくすと笑っている。それから、日常のこと、飼い犬のことなどを少し話して電話を切った。
 今日も母に布石を打たれて、何も相談することが出来なかった。例え、悩みを聞かれたとしても、母に上手く言える自信は無かったけれども。
 母との電話を切った後、すぐに着信があったので、母が折り返し電話をかけてきたのかと思いきや、ディスプレイには友達の名が表示されていた。電話に出てみる。
「もしもし」
優季、聞いて。また男に捨てられた。トラウマになりそう……」
「ふむ」
 そこから、彼女の話は三十分程続いた。よく饒舌に話せるなあと感心する。私情を挟む隙が無い。
「うーん、やっぱり優季はカウンセラーだけあって、頼りになるなあ。しかも、しっかりしてるから悩みなんてないでしょ」
「いや、あるよ」
「そうなの、意外。でもまあ、私みたいな凡人がアドバイスしても何の役にも立ちそうにないから止しておくよ。それに、優季は自分でうまく消化してそうよね」
 彼女は“悩み”を全て打ち明けてしまうと、すっきりしたように電話を切った。
 私は自分の仕事を大切に思っている。クライアントに対して真摯に向き合い、自分の感情はさて置き、自分なりに最善策を尽くしているつもりだ。それは、そこそこのお金を貰っているからであって、仕事には責任を持たなければならないという持論に因る。
 しかし、一旦、仕事から離れると、私はカウンセラーではない。私だって普通の女だし、落ち込んだり悩んだりすることもある。私は友人同士、親子同士ではいつでもギヴアンドテイクだと思っていた。そして、人のあらゆる相談にも乗ってきた。しかし、私が人に自分の悩みなどを相談する機会は訪れなかった。私は、自分の中でもやもやとしたものが消え行くのを黙って見ているだけだ。いくらカウンセラーとはいえ、自分の感情を抑圧したり、昇華したりすることが得意とは限らないのに。仕事と自分の感情は別物だ。
 私は携帯電話を放り投げ、家を出た。


 窮屈な感覚だった。今、自分が死んでも代わりのカウンセラーなどいくらでもいるのだし、自分よりもそれに向いている人だっていくらでもいる。私という個体と世界の境界が揺らぐ。
 歩きながら、今日訪れたクライアントたちのことを考えた。リストカットオーバードーズ摂食障害、妄想、幻聴……。私もリストカットして消えてしまいたいと思った。しかし、痛みに慣れていない私は、そうすることが怖かった。死も漠然だった。
 はっと思いついた。そして、私は鞄の中から大きな絆創膏を取り出し、自分の左手首にそうっと貼る。少し体が軽くなる。そして、そのまま、潮野のマンションへ向かった。


 私が突然訪問したことに、潮野は驚いていたが、部屋に入れてくれた。
「ビールでいい?」
「うん」
 潮野が渡すビールを私は左手で受け取った。
「今日も暑かったね」
「うん」
「今度の日曜、映画でも見に行く?」
 彼は私の左手首に気付いてないのか。
「潮野、あのね……」
「ん」
「えっと……」
 私は左手首を擦ったまま、何から言えばいいのか少し戸惑う。クライアントが自殺未遂をしたこと? クライアントに罵倒されたこと? 友人が悩みを聞いてくれなかったこと? 私が考えている“何か”?
優季さん」
 彼の表情が硬くなった。
「ちょっとね、そういうの、重い」
「え」
「俺、彼女が年上だと甘えられると思って、六歳も上の君と付き合ってるんだよね。だから、いきなり、俺に負担を持ち掛けないで。そういうの、すごくしんどいし、年上に甘えられるの重い」
「いや、そういうわけではなくて」
「その左手も。カウンセラーがそういうことやっていいわけ?」
 尤も至極な意見に、私は何も言えなくなってしまった。私はただ、潮野に心配されて、優しい言葉をかけてもらいたかっただけなのだ。しかし、彼は怒っていた。
「あの……」
「…………」
「そういや、この後、ちょっと友達と会う約束があって……。ちょっと早いけどもう行くね。顔が、見たかっただけなんだ……」
「うん。俺も今日はレポートが忙しいから」
 奇妙な言い訳を述べ、鞄を持つと、私はすぐにマンションを出た。勿論、潮野は追って来なかった。


 うまく頭が回らなかった。私がやっていることは自分でも意味不明だと思った。ただ、色々なことに傷付いている自分のことを誰かに心配してもらいたかっただけなのだ。カウンセラーだからといって、完璧な人間だというわけではない。仕事は理性と理論で片付けているが、自分にも感情はあって、傷付いたりすることもあるのだ。
 弱さをひけらかしている者だけが弱いのではない。弱さを内に秘めている者もいる。自分の弱さをうまく口に出せない者もいる。 
 結局、みんな、自分しか見ていないのだ。自分の悩みと他人の悩みを比較して、自分に重きを置く。人の痛みは自分の痛みではない。自分が、自分が、と迫る人ばかりでうんざりする。


 橋の上まで来ると、川を見下ろした。私は気が付かないうちに泣いていた。悲しいのか、悔しいのか、寂しいのか、何なのかよく分からなかった。本当にどうでもよかった。私がどうなろうと、他人がどうなろうと。何も、関係ない。
 そう考えるのと同時に、これは単にいじけているだけなのだということも、頭の隅ではっきり分かっていた。
 私は、やあ! と言って、左手首の絆創膏を思い切り勢いをつけて剥がした。そして、それは、ひらりひらりと橋の下へと落ちていった。
 これは、世界に八つ当たり、なのだ。
 暗闇の所為で、流れ行く絆創膏など見えもしなかったが、少し、すっきりしたような気がした。