データ

朝ほど体調が悪い時は無く、最近は頓に体重が減少した所為か胃痛と眩暈に襲われるのを止められず、以前、一緒に朝を迎えた相手に低血圧だから朝に弱くて起きれぬのだということを伝えると、それは単に言い訳であって低血圧がそのような症状を引き起こすとは限らないのだから早くベッドから出て準備しろという御言葉を頂いて、頗る不機嫌になったことを思い出す。一旦、夜になると体調が回復してきて、頭も澄み渡る様に感じ、それは文章を書き上げる達成感つまり体育祭や文化祭が終わった後の達成感と同等で、それがある故に強気でいるのだが、実はその内容は中身を伴っていないものばかりで、朝に読み返すのが怖く、一度書き上げたものは誤字脱字の推敲以外では読み返さないという内規則、放置。文章がどうあるべきなのか、どのようなものが精巧な文章といえるのか私には分からないが、自分が判断できることは只、好きか嫌いかのみである。最近の人の言葉の中に、これは方言なのかもしれないが、已然形・仮定形と命令形の使用に曖昧な箇所を見つける度、私は口の中でもごもごと五段活用を一人唱えるのである。自分の思考回路が肯定されるという根拠は無く、自分が好きなものを周りの人が好きだと言ってくれる確証も無く、確かに探せば世界にはいくらでもいるのだろうが、少なくとも私の周辺には私と全く同じ嗜好を持つものはいない。それは寂しいことであるが、同時に自分の独占欲を満足させてくれるものかもしれない。恋愛は支配欲だと或る人は言った。中田さんのことばかり考えている。薬を飲んでいるみゆきさんのことも考えてみる。彼女の悲しみを文章にして欲しかったと言われたが、そんなもの知らんがな。勝手に薬を飲んで大人しくしていろと突き放した気分になるのは、嘗て私が暮らしていた家に、あの狭苦しくて楽しかった生暖かい家に、彼女が住んでいることを嫉妬しているからなのかもしれない。思い出の場所。叔父が除霊祭を行った数日後、伐採した木が処分する前にその場所から何時の間にか無くなっていたのだが心当たりはあるか、と問われた。勿論、私も両親も処分した覚えは無いし、若しかしたらみゆきさんが片付けたのかもしれないということを伝えたのだが、それは叔父も確認済みのようで、一体誰があの木を処分したのか分からぬまま、デクレッシェンド。私はきっと霊がまた別の場所へと移っただけではないのだろうかと思っている次第であるが、霊能力者でもないし、そういう何かは未だ見えぬままで、本当のところは分からない。今日は殊に換気扇から、音階で言うならBの音がスースーと聞こえ、これはもしや数日前に片付けた霊の仕業かと、ぼんやりと立ち尽くすだけで申し訳なく思う。私には何も出来ない。その私に友達が、世界中の人から好かれるにはどうしたらいいのかと問うてきた時、思わず私は、死ねばいいよと返答してしまったが、やはりそれは拙かったのではなかろうか。