学校

 昼休みが終わろうとしている物騒がしい午後の隙間、背後からもごもごと声がして、それが私を呼び止める。
「きみは、どうして昼休みに生徒会室へ来なかったんですか」
 振り返ると、先生が立っていた。生徒会担当のひょろりとした男である。私はとっさに身構える。
「保健室へ行ってたから」
 嘘ではなかった。保健室へ行って、養護の先生と友人たちと楽しく無駄話をしていたのだ。
「具合が悪いのなら、仕様が無いですが、もうすぐ生徒総会もありますし、きみは書記という役職にも就いているのですから、来れる日はなるべく来て下さいね」
 先生はそれだけ言うと、ぷいと向きを変えて、どこやら行ってしまった。
 私の真意を先生は見破ったのかどうかは分からないが、この一件で、どうやら先生には私が書記だという認識はある、ということが分かった。無関心すぎて、生徒のことなど何も覚えていないと思っていたのだけれど。


 五時間目は先生の授業だった。教科書を朗読する先生の声は少し小さいし、ぼんやりとしているので、とても眠たくなる。だから、私は先生を観察して、その眠気を紛らわす。右の微妙な寝癖とダサい銀縁のメガネ。年は三十すぎているのか、よく分からない。先生のスーツの胸ポケットにはいつも万年筆が入っていて――彼女からの贈り物だという噂があるのだが、彼女がいるのかどうかは疑わしい――それを使って生徒のノートを添削をする。別に普通の赤ペンでいいじゃない、と私はいつも思うのだが、綺麗な青色のインクで「良い文章が書けています」などとノートに書かれると、妙な気分になったりするので、女教師の使うキャラクタースタンプよりはマシかなとも思うのである。



 次の日の四時間目、私は本当に気分が悪くなったので、数学教師に断り、教室を出た。前日の嘘が祟ったのかもしれないなと思い、保健室へと廊下をとぼとぼ歩いていると、廊下の角のブラックボードの前、薄暗い空間に先生がいた。
「何してるの、先生」
「あ」
「私は今から保健室に行くところ」
 サボりと思われてはかなわないので、先回りして釘を刺した。しかし、先生は私のことなど気にならないように、紙と画鋲を準備している。
「私は今、空き時間なので、短歌の優秀作品を貼ろうとしているところです」
「ふうん」
 私は先生が画鋲をボードに突き刺す様子を黙って見ていた。長い指がボードの一番上に、秩序よく、ぎゅうとピンを押し込んでゆく。無駄に身長だけは高いのだなと思った。
「先生」
「……何でしょう」
 私は背伸びをして、両手で先生のメガネを奪い取る。
「あっ」
「いつも思ってたけど眼鏡ヘンだよ。フレーム変えればいいのに」
「目が悪いものですから、見えればそれでいいんです。それよりも早く返してください」
 私は先生のメガネをかけてみたが、度がきつすぎて世界がゆがんでしまう。仕方がないので、メガネは私の小さなおでこの上に乗せておく。
「先生」
「……何でしょう」
 私は隙を狙って、胸ポケットの万年筆を奪い取る。
「ああっ」
「この万年筆欲しい。私にちょうだい」
「え」
 先生は困惑したように、私と向き合った。
「それは、差し上げられません。私の仕事道具なので」
「これ貰ったら、私、書記の仕事頑張るから」
 私は口から出任せを言う。
「無理ですね」
「彼女に貰ったものだから?」
「大事なものだからです。きみにも大切なものはあるでしょう?」
「…………」
 先生は何も無かったように、憮然とした私からメガネと万年筆を取り戻す。そして、作業に戻ろうとする。私は気持ちがしぼむ。
「先生は……」
「はい」
「先生は、私の名前を覚えてないよね。だから『きみ』と呼んでごまかしているんでしょ」
「覚えていますよ」
「嘘。いつも、生徒を指名する時、座席表見るじゃん」
「きみだって、私のことを名前で呼ばずに『先生』と呼んでいるのだから、同じことでしょう。学校とはそういうものです」
「そうじゃなくて、私は……」
 私は自分でも何を言っているのかよく分からなくなって眩暈を感じると、さっきまでの胃のムカムカが急激にせりあがってきて、しゃがみ込んだ。
「……大丈夫ですか?」
 先生も私の目の前にしゃがみ込む。
「放っといて」
と、言った瞬間、異様な吐き気がして、床に嘔吐してしまった。朝に飲んだオレンジジュースが出てきて、口の中に苦味が広がる。それしか出てこないのに、何回も何回も胃が逆流して、更に何かを押し出そうとする。
 その間、先生は背中をさするわけでもなく、ただただ、大丈夫ですかと繰り返すだけだった。
 先生は全然先生じゃないよ、と伝えたかったが、胃が痙攣してそれどころではなかった。