距離指数

 ショパンの『ワルツ#9変イ長調』を弾き終わると、もう練習を始めてから2時間が経っていた。部活の時間も合わせると、既に5時間は音楽に関わっていたことになる。そろそろ、宿題に取り掛からないといけないと思いつつ、その前に少し休憩をしようと、私は『楽典』を片手にリビングへと向かった。
 リビングでは、母と妹がテレビを見ながら談笑し、父は釣りの道具を手入れしているところであった。
 私がソファに座り楽典をぱらぱらと捲り始めると、無口な父が口を開いた。
「今度の土日、船を出すが、一緒に釣りに行くか?」
 私と妹は顔を見合わせる。
「私、行きたい。お姉ちゃんは?」
 私は父の顔をなるべく見ないようにして答えた。
「私はいいや。発表会近いし、日曜は夕方からレッスンあるし。美咲だけ行けば?」
「そうか。じゃあ、美咲と2人で行って来るか」
「うん。私、土曜は友達と遊ぶから、日曜に一緒に魚釣り行く!」
 妹と父は楽しそうに釣りの話を始めた。私がそこに加わることはない。
 そして、父が私のピアノ発表会を見に来てくれたことも一度もない。



 一ヶ月程前、父はサラリーマンであるのに、趣味が高じて船を買った。豊漁であるようにと、近所の漁師たちがそうするように、父も自分の船に女の名前を付けた。「みさき」丸は週末、よく沖合いに出る。父が一人の時もあれば、美咲が「みさき」丸に乗って参戦することもある。 
 3年くらい前から薄々気付いていたのだが、父は私よりも妹を可愛がっている。多分、気の所為ではない。塾の送り迎えも私の時には来てくれないが、妹の時には必ず行く。他にも色々な理由があるのだが、今は言いたくない。確かに、妹のほうが可愛げもあるし、気が利くし、話もよくする。でも、私は……。



 土曜の夕方、父は一人で釣りに出掛けた。明日の早朝に帰ってくるらしい。
 私はいつもの如く、部活から帰ってきて夕食後はピアノを練習する。近頃は、声楽や楽典、作曲の練習もしているのに、音楽家への道が少し遠くに感ぜられる。私はこんな海や山に囲まれた田舎を早く出て、優雅な雰囲気の生活を送りたい。その為にも、ピアニストを目指しているというのに。
 それから、最近、ピアノの先生はバッハやベートーベン、モーツァルトなどの暗めのバロック派や古典派ばかりを練習させる。私はショパンやリストなどのロマン派も弾きたい。だから、私は自分でショパンの楽譜を買ってきて、夜、一人で練習する。ショパンの『ワルツ#14ホ短調』は私のとても好きな曲だ。でも、今日は何だか、音よりも感情ばかりが先走り、指が震える。
 私はそこで弾くのを止め、ふうっと大きなため息をついた。そして、ベッドの傍へと行き、窓を開ける。ここからは少しだけ赤っぽい月が見えた。
 今頃、父も船の上に寝転がり、ぼんやりと同じ月を眺めているだろうか。
 しかし、たとえその月は同じであっても、私たちの距離が縮まることはないだろう。私は自分の体が父の細胞の一部から出来上がっていることを想像し、ひやりとした何かを感じた。