It was wide of the mark

 黒くて硬い学生鞄を開けると、そこには英語のノートも教科書もなくて、その代わりに生物の教科書とぐしゃぐしゃになったプリントが入っていた。
 要するに、私の鞄ではなかった。
 ネームタグのところを見ると、女の子らしい字で『柴原』と書いてあった。私は柴原と仲が良いわけではないが、彼女に鞄を返さなければならない。私の鞄は彼女が持って帰っているのだろうか。どうしてこんなことが起こったのか謎であったが、仕様がない。
 連絡網で彼女の家の番号を調べ、番号を押す。

 

 待ち合わせ場所の公園で、ぼんやりとベンチに座っていると、柴原がやってきた。彼女はふんわりとした白いワンピースに黒い学生鞄、とアンバランスな格好だった。
「鞄、間違って持って帰ってたみたい。ごめん」
 私は鞄をぐいっと彼女のほうへ渡す。
「いいよ。気にしてない。ていうか、私、わざと大坪さんの鞄持って帰っちゃった」
 彼女はにやりと笑って、持ってきた鞄を私へ返した。そして、隣へぽすんと座る。
「なんか、二人きりでゆっくり話す機会を作りたくて。学校では、お互い全く違うグループに属してるから、話しかけにくいでしょ」
「ふうむ」
「あ、大坪さん、鞄の中に入っている手紙は読んだ?」
「え、読んでないけど?」
「あー、そっかあ。うん。まあいいや」
「それって読んでよかったの?」
「うん。でも、いいの。まあ、いつか、渡すよ。多分」
 彼女はそう言って、空を見上げる。良い天気だ。
「ねえ、聞いていい?」
「うん」
「大坪さんはセックスしたことある?」
「え」
「なさそうだよね」
「なんで?」
「気持ちいいよ、すごく」
「……うん」
「絶頂に達する時って、合唱の声出しに似てる」
「え。合唱?」
「声出しする時って、背中にいっぱい空気を溜めてね、勿論、それはあくまでイメージで、実際は肺に空気を溜めてるんだけど。それから、その溜めた空気を頭の斜め後ろから前方にすこーんって、声にして飛ばすの。まあ、これもイメージなんだけど。その時の発声の仕組みと達する瞬間の子宮のきゅーんって感じは似てるよ。うん、似てるね」
「ふうん。さすが合唱部」
「なんかどうでもよさげだね。大坪さんは何に興味があるの?」
「世界平和。よく平和を祈ってる」
「へえ。大坪さんらしいね。でもさ、大坪さんたった一人が平和を願っても、世界情勢は何にも変わらないよね。それって意味あるのかな」
「…………」
「願うだけなら誰でも出来る。実際、行動しなきゃ意味ないよ。海外青年協力隊とかやればいいじゃん。若しくは国連とかで働く?」
「考えとく」
「私は将来、何しようかなあ」
「芸能人とか向いてるんじゃないの。歌上手だし。何か性格も変わってるし」
「ふふ。でもまあ、それより今は目の前の受験が先かもね」
「うん」



 結局、あの日は十五分くらい二人で話した後、何事もなく帰宅した。
 その後、音楽の授業で柴原が歌う度に、セックスの話を思い出し、一人で何とも言えない気分になったりしたが、二人の距離は相変わらずのままで、卒業まであまり話すことはなかった。勿論、卒業後も。
 今、柴原は結婚していて、四歳の子供がいるらしい。友達の友達から聞いた。何だか彼女が普通に結婚して、普通に主婦をしているのは勿体無いなあと思った。別に、私に言う資格はないのだけれど。それから、彼女があの日、いつか渡すと言っていた手紙のことだが、未だに私の元には届いてはいない。
 私は相変わらず世界平和を祈っているだけだ。