bystander 

 訳あって、死にかけたことがあります。
 気が付いたら、病院のベッドの上に拘束され、あれ、私、どうしてこんなことに……と記憶を辿りつつ点滴を受けているということは、全くなく、ああ、これはやばい……と思ったからこそ、自分でタクシーを呼び(さすがに救急車は恥ずかしい)、ふらふらになりながら来院し(あまりに辛くて車椅子で移動)、点滴をしてもちっとも具合が良くならないので血液検査してもらうと(只でさえ足りないというのに血を抜かれた)、困りましたね鉄剤では間に合わないから輸血しますよ、と看護婦さんに言われ、二リットル、輸血をお願いしました。
 人間は体力的な若しくは精神的なエネルギーがないと、簡単には死なないんです。耳の奥でごうごうと血流の音はするし、胃の中は空っぽなのに、吐き気だけはするし、身を持って体感しました。生きることと死ぬことの二極は意外と簡単なのに、生きているとも死んでいるとも言い難い瀕死の状態は一番きつい。中途半端が一番駄目。多分。
 そんなことを、輸血パックのぶらさがっている点滴台を見つめながら思っていました。案外、血液ってどす黒いんですよ。そして、高いんです。



 即興にそそのかされた私は、彼を見て言った。
「というわけで、輸血した血を献血することはできないんです。ごめんなさい」
「そうですか……」
 多分、信じていないのだろうなあ、こんな断り方をする人って他にいるかなあと思い、私は少しにやにやした。彼のほうはというと、『O型の血が足りません!ご協力を!』という看板を足元に降ろし、言葉を探し倦ねているようだった。「献血お願いしまーす」と声かけてきた時の元気はない。暫くして、彼はまごまごと口を開いた。
「あなたは、今までに絶望を感じたことはありますか」
「え……」
「僕はあります。ここで言うような内容ではありませんが」
「私は絶望なんて感じたことはありません」
「ほう」
「同じ条件で同じことを経験しても、それを絶望だと受け取るか受け取らないかには個人差があると思います。あんなにかわいそうなことがあったのに健気に生きているなあという人もいれば、たったあれくらいで絶望だと悲観しているのかという人もいる。私は、絶望とはずっと底にいるままの状態だと思ってます。しかし、生きている間、ずっと希望がないままだと私は思わないんです。いつかは楽しいことや嬉しいこともあるはず。一瞬の悲しみや苦しみを絶望だと私は仮定しません」
「それでも、一瞬の絶望感は自分自身を殺す力があると思いますが」
 彼の言い方に、少し、ちくりとした。
「例えそうだとしても、私は寿命が来るまで生きます。それがどういう方向かは予測できませんが、行きつく先が分からないからこそ、生きるのだと思います」
「そうですね」
 彼は笑顔で私を見つめた。そして、左手を差し出たので、握手をするのだろうと私も左手を差し出した。しかし、違っていた。
「大事になさって下さい」
 そう言って、彼は深い傷のある私の手首を撫でた。
 私は何かを言おうとしたが、彼は献血の看板を肩に担ぎ、人混みの中へ消えていった。
 絶望とは何だ。
 私には拒食症、神経症など、いろいろな症状の友達がいて、その友達の相談に応じている間、この人たちと私は違うという確信があって、その度に優越感を覚えたけれど、結局は私も彼らと何の変わりもなかった。
 家族に心配をかけるわけにもいかず、友達の前ではいつもふざけてばっかりだし、かといって相談できるような恋人もいない。それでは、誰に相談すればいいのか。否、相談して下さい、はいどうぞ、という箱の中では、何も出てはこない。
 気持ちが重い。自分の気持ちも。相手から向けられる気持ちも。でも、言葉は通り過ぎる。誰も結局は自分しか見ていないからだ。
 でも、私は生きるしかない。生きる中にきっと希望はある。逆に、死んでしまえば希望はない。絶望。何もない。私は死なない限り、絶望を感じることはない。だから、生きる。
 彼はもしかしたら、分かっていて声をかけてくれたのだろうか。もし、そうでないにしても、人は知らないところでちょっとした支えがあって救われているのかもしれないな、と思った。
 私は、自分の体に他の人の血が流れているのを感じながら、人混みを歩いて行った。