it's all Greek to me

 理科室のドアをそうっと開けると、白衣を着た先生と、ゆらゆらした煙が見えた。
「先生、校内、禁煙ですよ」
「お。他の先生かと思って少し驚いたぞ。どうした?」
 先生は慌てて煙草の火を消しているようだった。
「分からないところがあるので、質問に来ました」
「どうぞ」
 私は少し薄暗い理科室の中へと足を踏み入れる。そして、先生に一番近い椅子に座る。体が少し緊張するので、ノートをぺらぺらと捲ってごまかす。
「先生、同素体同位体の違いが分かりません」
「おい、岡野。この前の授業で教えたばっかりなのに」
「寝てました」
「堂々と言うなよ」
「先生のことは好きですけど、化学は嫌いです」
「化学は神秘的で面白いぞ」
 あっさりかわされたので、私は仕方なくノートに同素体同位体という言葉を書き出す。
同素体は、同じ元素から出来るもの。ダイヤモンドと黒鉛、酸素とオゾン等だ。同じ元素だが、性質は異なる。硫黄、炭素、酸素、リンでスコップと覚えておけ」
 私はノートに“スコップ”とメモする。
元素記号で書かないと、何がスコップが分からないぞ。SCOPだ」
 先生が笑って、煙草に火を点ける。私は頷いて書き足す。
同位体は、化学的性質はほとんど変わらない。重さだけが少し違うんだ。元素には質量数が伴うが、例えば炭素は12だ。炭素の殆どは12だが、13、14のものもある。同位体には炭素以外にもたくさんあるから、その辺は詳しく覚えてなくてもいい」
「ふうむ。本質は同じだけど、重さが違う……」
同位体は面白い。この前も縄文時代の遺跡が発掘されていたが、あれはどうやって年代を測定してるか分かるか?」
「いえ」
「あれは、炭素年代測定だ。炭素14は半減するのに約5730年かかる。それを基に年代を予測出来る」
「へえ。同じものでも時間が経てば、変化が起こるんですね。でもまあ、人間も同じかなあ」
「ふうん」
 先生はまた新しい煙草に火を点ける。
「吸い過ぎですよ。先生の彼女は煙草のこと、注意しませんか?」
「しないねえ」
 先生は笑っている。
「注意するといえば、女関係のことかな」
「先生は浮気するんですか?」
「浮気はしないけど、たまには女友達に会って食事したりはするよ。それで怒られたりするんだけど。好きだからヤキモチ焼くのは仕様がないと彼女は言っている」
「私なら怒りません」
「そうか」
「好きだというのは言葉の表面上だけで、それは妬みや憎しみです。本当に先生のことが好きなら、体のことも気遣うだろうし、仕事のことも心配したりすると思います。先生と彼女がどんなことをしたり話したりしているのか、私には分からないので、口出しすることではありませんが」
「ふむ」
「いつか、先生と彼女が別れて、その時、私と先生の本質が変化していなかったら、相手にしてもらえますか?」
 私は真っ直ぐ、先生を見つめたが、彼は何も言わなかった。私の先生に対する想いも時間が経てば、炭素みたいに減っていくのかな。否、自分の本質は自分で守っていくしかないんだ。
 先生の反応はない。仕方がないので、私はノートを閉じ、立ち上がって、先生に会釈をする。そして、ドアのほうへと歩く。
 私が理科室から出て行こうとする寸前、背後から呼びかけられた。
「おい、岡野」
 ノートを筒状にぎゅうっと握り締めたまま、振り返る。
「はい」
 一瞬の間、二人の間には、煙草の煙だけがぷかりと浮いている。





同素体同位体はテストに出るぞ」


「……はあい」


 まあ、そんなものだよね。私は気のない返事をした。