1856 - 崩れ -

 今日、ついにパードレが島へいらっしゃった。
 数日前から、この村にパードレが来島なさるかもしれないという噂が流れて、でもそれは確証がなく、大人たちはそわそわしていた。そして、パードレをお迎えするためには、役人たちに見つからないよう準備を進めなければならず、自分たちが崇めている像をこっそり磨いたり、パードレの滞在場所を黙々と用意したりしていた。それから更に、自らの気分の高揚を役人たちにばれてしまわないようにと、細心の注意を払っていた。
 そして、ついにこの日がやってきたのだった。この日、パードレに面会できるのは、長と重役と、大人数人。その後、他の人も面会できるかどうか検討されるようだった。
 しかし、私はどうしても我慢できずに、パードレが案内されたと思う小屋をこっそり覗いていた。
 藁の隙間から覗く小屋の中は、薄暗くて、パードレがどんな方でいらっしゃるかまでは判別することが不可能であった。そして、大人たちの会話もひそひそ声で、外に漏れぬよう気遣っているためか、何を話しているかも聞き取ることが出来なかった。
 私は諦めてその場を立ち去り、農作業に戻った。


 私は幼い頃、病気にかかったことがある。その時、両親は必死でオラショを唱えて、私の病気は治ったらしい。
 そして、現在、今度は父が病気にかかっている。しかし、家族の中でそれを知っているのは私だけかもしれない。この前、父が家の裏で、激しく咳き込んだ後、手のひらに血を吐いたのを、私は偶然見てしまった。父は普段、家族の前では元気な振りをしている。けれども、目に見えて痩せていっているので心配だ。
 父はとても善良である。そして、熱心なカクレの信仰者でもある。そして、私もカクレの信仰者ではあるが、父と同じほど信仰に厚くはない。こんな私の病気は治って、父の病気は進んでいる。信じることで救われることは本当にあるのだろうか。

 
 本土の方で、また激しい弾圧があったらしい。役人たちの拷問は目に見えて酷くなってきているようだ。海の満ち引きを利用した気の狂うような拷問。生きながらに頭から血を抜く逆さ吊り。役人は、人々に如何に衝撃を与えるか、長い時間苦痛を与えることが出来るか、そんなことしか考えていないようだ。今週、この村にも役人が来て、私たちは罰を受けることになるかもしれない。長がうまくそれを防いでくれるかもしれないし、全員処刑される可能性もある。それまでに、パードレの安全な場所への移動も考えなければいけない事項の一つであった。


 私はどうしてもパードレにお会いしてみたかった。お聞きしたいことがあるのだ。しかし、面会は簡単に許されるものではない。そこで、私は仮病を使うことにした。農作業を止め、家で少し休む振りをして、パードレのいらっしゃる小屋へと行くのだ。そして、それは母の善良な優しさによって、遂行することが可能となった。


 藁に覆われた小屋は、その周りが少し淀んで見えるほど、暗い雰囲気であった。周りに人がいないことを確かめると、私は、意を決して、その中へ入ることにした。
 小さな戸を引き開けると、奥の方でパードレが体を硬くして、こちらを窺っていらっしゃった。しかし、私が役人ではなく、ただの農民の女の子に過ぎないと分かると、表情を柔らげたようであった。
 私はパードレの目の前まで行くと、ぺたんと座った。私は緊張していた。パードレの体は、がっちりとしていて、腕や首や全ての部位が、この村の男の人たちよりも一周りも二周りも大きかった。そして、目は涼やかな青色。私は異国人を見るのが初めてだった。私が見つめていると、パードレは私に向かって何か言葉を発したが、私はその意味が分からなかった。そこで、私はその言葉をそのまま繰り返した。すると、師はにっこりとお笑いになるのだった。おそらく、挨拶の言葉か何かだったのだろう。
 緊張が少しずつとけ、じっくり観察してみると、パードレは薄汚れた布を纏い、顔も汚れていて、逃亡することに疲れているようだった。私たちと何ら変わらないような気がした。
「パードレ、私は、主を信じています。辛い現状でも、最後まで信じ抜き、信念を貫こうと思っています」
 恐らく、私の言っていることは分かっていないのだろうけど、パードレは優しく頷いてくれた。
「毎日、お祈りも捧げています。……でも、私は不安なのです。先月、隣村の人たちが拷問にあうのを見ました。人々が死に行く様や、死に近づく時の苦渋に満ちた表情が頭から離れません。彼らは、熱心な信仰者であるにも関わらず、ちっとも安らかな顔をしていませんでした。私は家族がそのような拷問を受けるのが耐えられません。自分はどうなっても構いませんが、家族だけは助けて欲しいのです」
 パードレは、私を心配そうに見つめている。
「この国では毎日、どこかでカクレの信者が拷問によって亡くなっています。これがずっと続けば、何千人、何万人の死者が出ることになるのだと思います。彼らは皆、善良な信仰者です。一方、拷問に挫け、転ぶ人も居ます。転んだ人たちは、カクレを捨てているのに、のうのうと暮らしていくことが出来ています。主は、この現状を分かっていらっしゃるのでしょうか。私は信じることによって、何らかを利益を得ることは願いません。カクレを信じることで精神の安定を得ることはできるのかもしれませんが、熱心に信じていても、救われていない、惨い死に方をしているのが現状です。こんな酷い仕打ちがあるでしょうか。主は何を見て、何を思っているのでしょうか」
 パードレは、力なく笑って、私の頭を撫でた。違う。私が望んでいるのは、そんなことではない。
「両親は、カクレを信じることによって、死後の素晴らしい世界が待っていると言います。しかし、私には死後の世界が見えません。今、ここにいる両親の姿しか見えません。私たちは何故、カクレを信仰しているのでしょうか。毎日、畑を耕して、自然に感謝して、少しの食べ物を家族で分け合い、ささやかに生きていくことが、そんなにも高望みなのでしょうか」
 私は目の前のパードレをじっと見つめた。彼ら異国人が宣教などしに来なければ、私たちはカクレなど信仰しなかったし、役人たちの拷問に怯えることもなかった。否、信じることは悪くない。只、異国人が関わることによって、政府は邪教として排除するのなら、異国人が関わらない自分たちだけのひっそりとした宗教として……。
 カクレを信仰している人を役人に密告すると報酬が貰えるらしい。また、パードレを引き渡すと倍の報酬が貰えるらしい。私はそんな報酬など要らない。只、目の前にいる人が苦しむのに耐えられない。私がパードレを引き渡せば、ここの村人へ対するの役人の疑惑の目は緩むかもしれない。拷問を遠ざけることが出来る。村人たちの命を救うことが出来る。主が人々の命を救ってくださらないなら、私が救う。それによって、私がどんな罰を受けようと構わない。
 きゅっと拳を握って、私は立ち上がった。冷めた目で彼を見下ろす。