アパート一周、世界一蹴

「どう? ご飯おいしい?」
『んー。まあまあ』
「田中とこうやって一緒にいるの久し振りだね。いつも他の人のところをふらふらしているの?」
『そだね』
「まあ、いいや。たまにはゆっくりしていってよ」
 そういって、津口は私の頭を撫でた。津口はいつも、私を違う名前で呼ぶ。しかし、私はそれが田中であろうと、なかちゃんであろうと、たーたんであろうと、別段気にはしない。呼び方が変わろうと、私自身が変化するわけではないからだ。そして、彼の手の温かさも変わらない。いつも優しい。それがたまに鬱陶しいこともあるのだけれど。


「あのさあ、どうして、女の子は気が変わりやすいんだろう」
 また津口の独白が始まった。彼は私が聞いていようといまいと自分の語りたいことを語る。
「俺の知的な部分や人に流されないところが好きだとか言いながら、やっぱりスポーツ出来る方が格好良いし、明るく場を盛り上げてくれる人が好きだから白石と付き合うなんて、本当に意味が分からない。一緒に寝た時は、あんなに好きだと言ってくれたのに、今更勘違いだったとか酷いよね。女の子の“好き”は信じられない」
『その彼女が移り気なんだよ』
「それでも、彼女の声が好きで、笑顔が好きで……、どうして諦められないんだろうな。俺が無防備すぎて、勝手に傷付いているだけなのかな」
『ううむ』
「俺も田中みたいに身軽に気ままに生きたいよ」
 私は、こうやってちっぽけなことに傷付いて、悩んで、しょんぼりしている津口が可愛いと思うのだけれど。


 私が津口の傍を離れると、「もう帰るの?」と言って、彼はドアを開けてくれた。部屋に入れてくれたのは窓からだったのに、帰る時は玄関だなんて、ちょっと面白いなと思った。
「またいつでも来てよ。ご飯あげるからさ」
 私はその言葉に、頭を少し傾けることで答えた。元気出してよ、津口。


 アパートの下まで降りると、各部屋の明かりが六つ見えた。六人は在室ということか。
 このアパートには、津口の他に色々な人が住んでいる。例えば一階の隅の部屋には文学をしている男性が居て、いつも、何やら文章を生み出している。そして、その隣の隣には大学生くらいの女の子が住んでいて、不倫に悩んでいる。そして、その斜め上には予備校の講師が住んでいて、授業の為に五段活用の表を必死で作っていて、そして、そのすぐ下の部屋には、新社会人の男性が、まだ仕事に慣れないとため息をついている。
 世の中には色々な人が居て、それぞれが色々な考え方を持っている。しかし、それぞれが持っている世界は結局は同じものだ。人間は自分の目の前のことに悲観して、楽観して、気持ちを振り回される。だけど、世界は個人のために回っているわけではないし、ただ存在するだけ。
 私は人間の感情を面白く観察して、そして、時々少し、羨ましくもなる。



「あれ? チョコちゃんじゃない?」
 後ろから声をかけられた。アパートの住民である由美子さんだ。
「ちょっとおうち寄っておいでよ。猫用の美味しいおやつ買ってあるからさ」

 呼び名も感情も関係ない。自分の本質は変わらないし、世界もたったひとつしかない。世界は猫にも人にも平等である。

「にゃー」

 一声鳴いて、由美子さんの後に続いた。