ひとひら

 第一校舎から渡り廊下を通って、突き当たりまで行くと、第二美術室がある。そこでは、美術部員が油絵やデッサンなどの作品を製作していて、少し異様な雰囲気がある。私は美術部員ではないが、美術室までの、このひんやりとした薄暗い廊下を歩くと、冒険心というかわくわくした気分になる。


 美術室の少し重たい扉を開くと、油絵具の人工的な匂いがした。隅っこの方で、鈴木が大きなキャンバスと向き合っている。放課後ののんびりした感じと鈴木の頼りなげな雰囲気の絶妙なマッチ。
 私はそうっと鈴木に近付き、声を掛ける。
「ふふ。頑張ってるねえ」
 鈴木はびくともせず、答える。
「何しに来たの?」
「暇だから、冷やかしに来た」
「そう」
「ねえ。これ、何ていう絵?」
ミケランジェロの『最後の審判』という絵の模写」
「へえ。私、あんまりルネサンス時代の絵はよく分かんないんだよねえ。もっと分かりやすい絵を描いてよ」
「うーん。システィーナ礼拝堂の天井画とか最高なんだけどなあ。あと彫刻も良くて『ラケル』とか。あとはサン・ピエトロ大聖堂の雰囲気も」
「ねえねえ」
「ん」
「これって、天国に行く人と地獄に行く人を書いているの?」
「そう。真ん中にいるキリストが死者に対して、天国に行くべきか地獄に行くべきか審判を下すのだよ」
「ふうん」
 人間がいっぱい描かれていて、何だかせわしない絵だなあと思った。どこに注目していいのか分からない。ひとつの絵の中に幸福と不幸。詰め込み過ぎではないの? 
 鈴木は私には構いもせず、黙々と作業を続けている。
「ねえ、鈴木は天国に行くの? それとも地獄に行くの?」
 え、と微かに言葉を発した鈴木は私のほうを向き、笑っている。
「変な質問。分かんないけど、大して悪いこともしてないから、天国かなあ。お前は?」
「私はいっぱい悪いことしちゃったから、地獄かもしれないなあ」
「何したの?」
 鈴木は興味深そうに、私を見つめる。
「えっとね。私は小さい頃、今よりももっと成績が良くて、愛想も良くて、冗談を言って皆をよく笑わせるような子だったの。それで、大人からも友達からも、ちやほやされてたのね」
「まあ、今も割りとそうなんじゃないの」
「そんなことない。でね、その頃の私は、かなり調子に乗っていて、私って何でも出来る子だ、と思い込んでいたの。友達に勉強を教えれば、分かりやすいとお礼を言われるし、ピアノソナタを弾けば、よくこんなに指が動くねと尊敬されるし」
「ふむ」
「ある日、弟がブランコ怖いよって言うから、私は乗り方教えてあげると言って、弟を乗せたの。最初は怖がっていた弟もゆらーゆら揺れるのに慣れてきて笑ってたから、私はもっと揺らしてやろうと思って、少しずつ加速したのね。で、気分が最高潮になった時に、弟の背中をぽんっと押したら、弟、体ごと吹っ飛んで、頭から地面に激突。たんこぶ作って、わーわー泣いてたよ」
「それは痛そう」
「でも、私はそれだけでは懲りない人なのよ」
「え。まだあるの?」
「ある男の子がね、鉄棒の練習をしていたの。あとは体を前にくるんって回すだけの状態なのに回らずに、鉄棒の上で体を浮かせ、ぷらーぷら足を空中で泳がせているんだよ。見ているこっちがもどかしくて、大丈夫だよー回るだけだよー、と言って、ぽんっと背中を押したのね。そしたら、その子、鉄棒から見事に落下して、頭から血を流すわ、右手は骨折するわ、もう大変」
「…………」
「あの時はごめんね、鈴木。痛かったし、骨折はいろいろ不便だったでしょ? ずっと謝りたかったんだけど、昔のことを改めて言うのも何だか変だし……。心の中がもやもやしてたの」
「え……」
「本当に、あの頃の私は傲慢で、自分が何でも出来ると思い込んでいる上に、人のことまでも何とかしてやれるとか思っていたの。ひどいでしょ。そして、心も体も傷つけちゃうんだからねえ。これは地獄行きかもね」
「ん」
「でも、これですっきりした。ほんと、ごめんね」
「お前が改心したのも分かるし、反省したのも分かるんだけど」
「え……。もしかして、まだ怒ってる?」
「いや、そうではなくて」
「私、これからも謝り続けるからさ。罪は償っていくつもりだよ」
「いや、償う相手が違うんだ」
「どういうこと?」
「お前が怪我させたの俺じゃない。鈴木違いだよ」


 絵の中のキリストが笑っているように見えた。私の罪と罰はどこに?

Late though it is, we'll stay a little longer

 起きたら、そこは火星でした。


 ということは、分かりません。私にとって、一番身近な惑星が火星だったから、そう思ったのかもしれません。ただ、私は出発してから数週間後、宇宙を彷徨った挙句にそこに到着していたのでした。
 今、私は四畳半くらいの広さのシアーショートルンの中にいます。その乗り物には重量制限があるので、私は乗せるものを考えなければいけませんでした。一冊の本、音楽、写真、食糧など……。それらを乗せて、私は火星(仮)へやってきたのです。
 窓の側に歩いていくと、足にふわふわっとした感触がありました。そうです。イヌです。私は火星(仮)に、イヌも連れてきたのでした。なぜ、イヌを乗せようと思ったのか、決めた時には、自分でよく分かりませんでしたが、今になるとあれがきっかけだったのかもしれません。



 私が九歳の頃、飼っていたマルクスと共に散歩に出かけていました。暫く歩いていると、マルクスは道に落ちていた何かを咥えました。私は母から、「道に落ちているものをマルクスに食べさせちゃだめよ」と言われていたので、マルクスの口からそれを取ろうとしたのですが、余計にマルクスは夢中になって離そうとしないのでした。そして、仕舞いには、それを食べてしまったのです。そうすると、皆さんのご想像通り、マルクスは、口から泡を吹いて、ぱたりと倒れてしまったのでした。私は一瞬、何が起こったか分かりませんでした。しかし、マルクスを触っているうちに、筋肉が硬直していくのが分かり、気付いたのです。ああ、かわいそうなマルクス! 私が口からそれを取り上げなかったばかりに!
 それは、役所が増えてきた野良犬を駆除する為に作った天ぷらのようなものでした。そんなものの為に、マルクスは命を落としたのでした。
 それから、私は絶対、生き物を飼わないと決めたのですが、マルクスがいなくなって、しょんぼりした私を励ますために、両親は新しい動物を買ってきました。
 もう今までみたいに可愛がりはしない! 何故なら死んだときに悲しいから! と私は思い、名を付けずに、属名で呼ぶことにしたのでした。



 そして、今、シアーショートルンの中で、イヌは私の足元に座り、私を見上げています。きっと、環境の変化に怯えているのでしょう。少し、目が潤んでいました。
「大丈夫だよ」
 私はそっと、イヌの頭を撫でました。私は今、マルクスに対する罪をイヌに対して償っているのかもしれません。全く傲慢ですね。

 窓の外を見ると、ずっと続く黄土色の地平線。地表が少し、さらさらとしているように見ました。
 ピリピリピリと窓枠が少し揺れているなあと思ったら、どこからともなく、ドーンドーンと低い地響きが聞こえてきます。シアーショートルンの稼動音かもしれませんし、何かの生命体かもしれません。コンチアーテスケルトを使えば、私もイヌも気軽に外に出られるので、早速試してみようと思いました。
 いつまで一緒にいられるかなあと思って、イヌを見ると、健気に尻尾を振っています。
「おいで」
 私たちはコンチアーテスケルトの準備に取り掛かるのでした。

 
 

once in a blue moon

 駅の改札を出たら、階段の横に井上を発見して、思わず顔が緩む。
「出迎え、どうも」
「いえいえ、どういたしまして」
 駅の建物を出て、二人で、とことこと夜道を歩く。
 夜の空気は、昼みたいに運動場の匂いがしない。どこかの家からはお風呂の匂いがしっとりと、はたまた、どこぞの家からは晩ご飯の匂いがほんわりと、それぞれの家庭の時間が外に洩れていた。
「お腹空いたね」
「店に入って何か食べましょうか」
「うん。あれ、あの店の看板、何屋さんって書いてる?」
「すみません。見えません。今、眼鏡もコンタクトもつけてません」
「何で」
「文明に逆らいたいときもあるから」
「ふうん。変なの。まあいいや。良いお店があったら、入ってみよう。それまでは歩こう」
「そうしましょう」
 暫く二人で歩いていると、ある男の人と擦れ違った。彼は携帯電話で彼女にだろうか、必死に愛を説いているようだった。『愛している』との言葉が遠ざかりながらも、何回も聞こえてきた。
 井上の様子を伺うと、前を向いて無表情であった。気になったのは私だけのようだ。
「何だかさ……」
「はい」
「最初は『好き』とか『愛している』とか言われて喜んでいても、そんな言葉は使う程に古びてしまって、そういう言葉をかけられる度に、白々しい気持ちにならない? 若しくはそういう言葉自体が軽々しいというか」
「どうだろうなあ。あんまり考えたことないですねえ」
「ふむ」
「じゃあ、あなたはどうやって、好きだという気持ちを表現しますか?」
「…………」
 確かに、言葉ではなくて、態度で気持ちを表現するというのは難しい。かと言って、I love youをそのまま訳したような言葉を使うのでは脳が無い。しかし、ここで、私がどんなに素敵な仕草を見せたとしも、視力が悪い井上にはそこまでよく見えはしないだろう。
「じゃあ、井上はどうやって表現する?」
 すると、井上は私の方を向き、にっこりと笑った。そして、ゆっくりと空を見上げると言う。
「月が、綺麗ですね」



 正直に言えば、愛を表現するには体を使うしかない、と一瞬私は考えてしまい、少し恥ずかしくなった。頭が弱い。私は、井上の手にそっと触れる。ぎゅっと手を繋ぐ。
 すると、井上もきゅっと返してくれた。
 
「井上と歩くから、夜道も楽しいよ」
 

you'd be so nice to come home to

「水谷の好きなものって何?」
 佐倉が笑顔で聞いてくるので、私は一瞬、固まってしまった。
 そして、何気なくメニューに目を移して言う。
「私はハニーシフォンとブレンドティーでいいよ」
「いや、そういう意味ではなくてね。んー、まあいいか。じゃあ、私はミルクレープとキャラメルラテにしよう」




 手元に届けられたシフォンとお茶は柔らかな香りで、とても美味しそうに見えた。そして、久し振りに会った佐倉は相変わらず可愛くて、優しい雰囲気で、私とは正反対だなと思った。
「疋田は元気?」
「ふふ。元気だよ。毎夜、三回はするね」
「ふうん」
「それより、水谷は恋人出来た?」
「恋人の存在意義が分からない。家族も友達も仕事もあるし、満足してる」
「恋人がいることで満たされることもあるよ」
「セックスなら友達とも出来る」
「心の充足のことだよ」
 それなら、佐倉は私と一緒にいる時は、心の充足は出来ていないのか?
「まあ、気が向いたら作るから、佐倉は心配しないで」
「うん。でも、疋田も心配してたからさ。前は三人でよく遊んでたのに、最近はあんまり集まれないしね」
「だって、二人の邪魔になると嫌だから」
「邪魔だなんて思ったことは一度もないよ。水谷が私たちを出会わせてくれたんだから、感謝してる」
「そんな大げさな」
「あのね……、ちょっと気になってたことがあるんだけど……」
 佐倉はカップに目を落とし、スプーンを指先で突いた。
「何?」
「水谷は疋田としたことないの?」
「ないよ」
「本当に?」
「疋田は格好良すぎて友達としてはいいけど、恋人としては窮屈すぎる」
「変な理屈。でも、それならいいの。何か気になっててさ」
「疋田はいいやつだから、その辺の心配はしなくていいじゃないの?」
「うん……」
 私はシフォンにフォークを突き刺す。そして、佐倉はまだ口籠もっている。
「何となく……疋田って……」
「何?」
「疋田ってセックス上手だし、女の人とたくさん付き合ってきたんだろうなって思えるし、でも私はそんなに経験があるわけではないし、いつも気持ち良くさせられてばかりだし、このままで私、本当にいいのかなあと思ったり。まあ、セックスが全てではないけどさ」
 佐倉は私と違って、とても綺麗だ。そんな心配する必要ないのに。
 私は無言で、シフォンを食べ続ける。けれども、ふわふわしているだけで、ちっとも味はしない。
「どうしたの?」
「別に」
「ごめんね。変なこと言ったから、怒っちゃった?」
「いや」
 顔を上げると、佐倉と目が合った。そんな目で私を見ないで。
「正直、嫉妬してる。羨ましいよ、疋田が」
 

 店内ではあの曲が流れていた。そして、外では、雨がしとしとと降り、梅雨の到来を告げていた。
 もうすぐ、佐倉はジューンブライドになる。
 おめでとう。そして、お幸せに。

bystander 

 訳あって、死にかけたことがあります。
 気が付いたら、病院のベッドの上に拘束され、あれ、私、どうしてこんなことに……と記憶を辿りつつ点滴を受けているということは、全くなく、ああ、これはやばい……と思ったからこそ、自分でタクシーを呼び(さすがに救急車は恥ずかしい)、ふらふらになりながら来院し(あまりに辛くて車椅子で移動)、点滴をしてもちっとも具合が良くならないので血液検査してもらうと(只でさえ足りないというのに血を抜かれた)、困りましたね鉄剤では間に合わないから輸血しますよ、と看護婦さんに言われ、二リットル、輸血をお願いしました。
 人間は体力的な若しくは精神的なエネルギーがないと、簡単には死なないんです。耳の奥でごうごうと血流の音はするし、胃の中は空っぽなのに、吐き気だけはするし、身を持って体感しました。生きることと死ぬことの二極は意外と簡単なのに、生きているとも死んでいるとも言い難い瀕死の状態は一番きつい。中途半端が一番駄目。多分。
 そんなことを、輸血パックのぶらさがっている点滴台を見つめながら思っていました。案外、血液ってどす黒いんですよ。そして、高いんです。



 即興にそそのかされた私は、彼を見て言った。
「というわけで、輸血した血を献血することはできないんです。ごめんなさい」
「そうですか……」
 多分、信じていないのだろうなあ、こんな断り方をする人って他にいるかなあと思い、私は少しにやにやした。彼のほうはというと、『O型の血が足りません!ご協力を!』という看板を足元に降ろし、言葉を探し倦ねているようだった。「献血お願いしまーす」と声かけてきた時の元気はない。暫くして、彼はまごまごと口を開いた。
「あなたは、今までに絶望を感じたことはありますか」
「え……」
「僕はあります。ここで言うような内容ではありませんが」
「私は絶望なんて感じたことはありません」
「ほう」
「同じ条件で同じことを経験しても、それを絶望だと受け取るか受け取らないかには個人差があると思います。あんなにかわいそうなことがあったのに健気に生きているなあという人もいれば、たったあれくらいで絶望だと悲観しているのかという人もいる。私は、絶望とはずっと底にいるままの状態だと思ってます。しかし、生きている間、ずっと希望がないままだと私は思わないんです。いつかは楽しいことや嬉しいこともあるはず。一瞬の悲しみや苦しみを絶望だと私は仮定しません」
「それでも、一瞬の絶望感は自分自身を殺す力があると思いますが」
 彼の言い方に、少し、ちくりとした。
「例えそうだとしても、私は寿命が来るまで生きます。それがどういう方向かは予測できませんが、行きつく先が分からないからこそ、生きるのだと思います」
「そうですね」
 彼は笑顔で私を見つめた。そして、左手を差し出たので、握手をするのだろうと私も左手を差し出した。しかし、違っていた。
「大事になさって下さい」
 そう言って、彼は深い傷のある私の手首を撫でた。
 私は何かを言おうとしたが、彼は献血の看板を肩に担ぎ、人混みの中へ消えていった。
 絶望とは何だ。
 私には拒食症、神経症など、いろいろな症状の友達がいて、その友達の相談に応じている間、この人たちと私は違うという確信があって、その度に優越感を覚えたけれど、結局は私も彼らと何の変わりもなかった。
 家族に心配をかけるわけにもいかず、友達の前ではいつもふざけてばっかりだし、かといって相談できるような恋人もいない。それでは、誰に相談すればいいのか。否、相談して下さい、はいどうぞ、という箱の中では、何も出てはこない。
 気持ちが重い。自分の気持ちも。相手から向けられる気持ちも。でも、言葉は通り過ぎる。誰も結局は自分しか見ていないからだ。
 でも、私は生きるしかない。生きる中にきっと希望はある。逆に、死んでしまえば希望はない。絶望。何もない。私は死なない限り、絶望を感じることはない。だから、生きる。
 彼はもしかしたら、分かっていて声をかけてくれたのだろうか。もし、そうでないにしても、人は知らないところでちょっとした支えがあって救われているのかもしれないな、と思った。
 私は、自分の体に他の人の血が流れているのを感じながら、人混みを歩いて行った。

It was wide of the mark

 黒くて硬い学生鞄を開けると、そこには英語のノートも教科書もなくて、その代わりに生物の教科書とぐしゃぐしゃになったプリントが入っていた。
 要するに、私の鞄ではなかった。
 ネームタグのところを見ると、女の子らしい字で『柴原』と書いてあった。私は柴原と仲が良いわけではないが、彼女に鞄を返さなければならない。私の鞄は彼女が持って帰っているのだろうか。どうしてこんなことが起こったのか謎であったが、仕様がない。
 連絡網で彼女の家の番号を調べ、番号を押す。

 

 待ち合わせ場所の公園で、ぼんやりとベンチに座っていると、柴原がやってきた。彼女はふんわりとした白いワンピースに黒い学生鞄、とアンバランスな格好だった。
「鞄、間違って持って帰ってたみたい。ごめん」
 私は鞄をぐいっと彼女のほうへ渡す。
「いいよ。気にしてない。ていうか、私、わざと大坪さんの鞄持って帰っちゃった」
 彼女はにやりと笑って、持ってきた鞄を私へ返した。そして、隣へぽすんと座る。
「なんか、二人きりでゆっくり話す機会を作りたくて。学校では、お互い全く違うグループに属してるから、話しかけにくいでしょ」
「ふうむ」
「あ、大坪さん、鞄の中に入っている手紙は読んだ?」
「え、読んでないけど?」
「あー、そっかあ。うん。まあいいや」
「それって読んでよかったの?」
「うん。でも、いいの。まあ、いつか、渡すよ。多分」
 彼女はそう言って、空を見上げる。良い天気だ。
「ねえ、聞いていい?」
「うん」
「大坪さんはセックスしたことある?」
「え」
「なさそうだよね」
「なんで?」
「気持ちいいよ、すごく」
「……うん」
「絶頂に達する時って、合唱の声出しに似てる」
「え。合唱?」
「声出しする時って、背中にいっぱい空気を溜めてね、勿論、それはあくまでイメージで、実際は肺に空気を溜めてるんだけど。それから、その溜めた空気を頭の斜め後ろから前方にすこーんって、声にして飛ばすの。まあ、これもイメージなんだけど。その時の発声の仕組みと達する瞬間の子宮のきゅーんって感じは似てるよ。うん、似てるね」
「ふうん。さすが合唱部」
「なんかどうでもよさげだね。大坪さんは何に興味があるの?」
「世界平和。よく平和を祈ってる」
「へえ。大坪さんらしいね。でもさ、大坪さんたった一人が平和を願っても、世界情勢は何にも変わらないよね。それって意味あるのかな」
「…………」
「願うだけなら誰でも出来る。実際、行動しなきゃ意味ないよ。海外青年協力隊とかやればいいじゃん。若しくは国連とかで働く?」
「考えとく」
「私は将来、何しようかなあ」
「芸能人とか向いてるんじゃないの。歌上手だし。何か性格も変わってるし」
「ふふ。でもまあ、それより今は目の前の受験が先かもね」
「うん」



 結局、あの日は十五分くらい二人で話した後、何事もなく帰宅した。
 その後、音楽の授業で柴原が歌う度に、セックスの話を思い出し、一人で何とも言えない気分になったりしたが、二人の距離は相変わらずのままで、卒業まであまり話すことはなかった。勿論、卒業後も。
 今、柴原は結婚していて、四歳の子供がいるらしい。友達の友達から聞いた。何だか彼女が普通に結婚して、普通に主婦をしているのは勿体無いなあと思った。別に、私に言う資格はないのだけれど。それから、彼女があの日、いつか渡すと言っていた手紙のことだが、未だに私の元には届いてはいない。
 私は相変わらず世界平和を祈っているだけだ。

Not in the least!

「俺、三十歳になったら、死ぬよ」
 春成は私に言った。
「どうして?」
「生まれるのは自分の意思ではなかった。だから、せめて、死ぬ時くらいは自分で終わりを決めて死のうと思う」
「そっかあ」
「三十まであと十年はあるし、自分の色々好きなことをやっておきたいと思う。十年あれば十分だと思う」
「ふむ」
「北見はどう思う?」
「んー、私は別に人間みんないつかは死ぬんだし、別に自ら命を絶たなくてもいいんじゃないかなあと思う。私自身、病気がちでいつも死にかけてるから、いつ死んでもおかしくない状況」
「なるほど」
「春成は自殺の方法とかもう決めた?」
「まだだけど」
「じゃあ、春成が三十歳になったら、私にその命ちょうだい」
「え」
「どうせ死ぬんなら、人に役立つ死に方しよう」
「例えば?」
「死ぬ間際にカンボジア行ってきて」
「え。なんで?」
「地雷撤去」
「ジライテッキョ?」
カンボジアとかベトナムとか世界にはまだ一億以上の地雷が埋まっているでしょ。それを撤去するには莫大な費用と人数と時間がかかるよね。で、日本には毎年数万人の自殺者が出るわけでしょ。その人たちはおそらく、色んな手法で自殺を実行したのだと思うのだけれど、どうせ死ぬのなら、その命を誰かの為に役立てて欲しい」
「つまり、地雷の犠牲になれと?」
「まあ、そこまでは言わないけれど」
「今、自殺者の残された家族や友人を敵に回したね」
「私自身が残された人だけど」
「あ、そう」
「まあ、人の感情って合理的にいかないものだから、難しいよね」
「ふむ」
「それに、繋がったままする話ではないよね」
「うむ」
 私は春成の体にぴたっとくっついた。どくどくどくという音が聞こえた。私の鼓動か春成の鼓動か分からないくらいしっかりしていた。
 死なせるのにはもったいないなあと思った。だからといって、私が生きることを渇望しているというわけではないのだけれど。
 春成が私の首にそうっと手を当てる。
「細いなあ。すぐに折れそうだ」
「うん」
 そのまま春成が私の首に両手を回して、この気持ち良さの中、殺してくれてもいいのにと思った。
 いや、それでは全く合理的な死ではない。矛盾矛盾。