あましずく

朝日の空の向こう 温度は消えて
左の手のひらは 乾いたままで

君の横顔には 触れずに


君が買ったアイスティー
木々が揺れた散歩道

言葉は まだ拙くて
伝えることができなくて

君が居た左を
限がなくて想うよ

今 僕は纏うよ
通り過ぎていく街並みたいに 


雨音の消えた夜は 雫がぽたり
眠りの向こうには 逆らう高嶺

僕の知る世界は止まっていく


雨が降った気配に 
藍に濡るる紫陽花

言葉は 今も空回り 
伝えることができなくて

会えばもっと悲しく
敢えて言うと切なく

今 僕らは無意味に
止まり続けていて 何故か儚い 


僕の見る世界は止まっていて 
僕の居る世界は動いていく きっと常に


君が言った本音も
僕が知った事実も

言葉は 今 壊れていく 
届けることができなくて

雨が降る明日も
相に触れる何時かも

今 僕は誓うよ
風に揺れている水面みたいに


君が買ったアイスティー
木々が揺れた散歩道

言葉は また途切れていく
漂うことができなくて



君が見る世界を
僕もいつか見れたら

今 歩み出せるよ
隠し続けていく本音 流して

アパート一周、世界一蹴

「どう? ご飯おいしい?」
『んー。まあまあ』
「田中とこうやって一緒にいるの久し振りだね。いつも他の人のところをふらふらしているの?」
『そだね』
「まあ、いいや。たまにはゆっくりしていってよ」
 そういって、津口は私の頭を撫でた。津口はいつも、私を違う名前で呼ぶ。しかし、私はそれが田中であろうと、なかちゃんであろうと、たーたんであろうと、別段気にはしない。呼び方が変わろうと、私自身が変化するわけではないからだ。そして、彼の手の温かさも変わらない。いつも優しい。それがたまに鬱陶しいこともあるのだけれど。


「あのさあ、どうして、女の子は気が変わりやすいんだろう」
 また津口の独白が始まった。彼は私が聞いていようといまいと自分の語りたいことを語る。
「俺の知的な部分や人に流されないところが好きだとか言いながら、やっぱりスポーツ出来る方が格好良いし、明るく場を盛り上げてくれる人が好きだから白石と付き合うなんて、本当に意味が分からない。一緒に寝た時は、あんなに好きだと言ってくれたのに、今更勘違いだったとか酷いよね。女の子の“好き”は信じられない」
『その彼女が移り気なんだよ』
「それでも、彼女の声が好きで、笑顔が好きで……、どうして諦められないんだろうな。俺が無防備すぎて、勝手に傷付いているだけなのかな」
『ううむ』
「俺も田中みたいに身軽に気ままに生きたいよ」
 私は、こうやってちっぽけなことに傷付いて、悩んで、しょんぼりしている津口が可愛いと思うのだけれど。


 私が津口の傍を離れると、「もう帰るの?」と言って、彼はドアを開けてくれた。部屋に入れてくれたのは窓からだったのに、帰る時は玄関だなんて、ちょっと面白いなと思った。
「またいつでも来てよ。ご飯あげるからさ」
 私はその言葉に、頭を少し傾けることで答えた。元気出してよ、津口。


 アパートの下まで降りると、各部屋の明かりが六つ見えた。六人は在室ということか。
 このアパートには、津口の他に色々な人が住んでいる。例えば一階の隅の部屋には文学をしている男性が居て、いつも、何やら文章を生み出している。そして、その隣の隣には大学生くらいの女の子が住んでいて、不倫に悩んでいる。そして、その斜め上には予備校の講師が住んでいて、授業の為に五段活用の表を必死で作っていて、そして、そのすぐ下の部屋には、新社会人の男性が、まだ仕事に慣れないとため息をついている。
 世の中には色々な人が居て、それぞれが色々な考え方を持っている。しかし、それぞれが持っている世界は結局は同じものだ。人間は自分の目の前のことに悲観して、楽観して、気持ちを振り回される。だけど、世界は個人のために回っているわけではないし、ただ存在するだけ。
 私は人間の感情を面白く観察して、そして、時々少し、羨ましくもなる。



「あれ? チョコちゃんじゃない?」
 後ろから声をかけられた。アパートの住民である由美子さんだ。
「ちょっとおうち寄っておいでよ。猫用の美味しいおやつ買ってあるからさ」

 呼び名も感情も関係ない。自分の本質は変わらないし、世界もたったひとつしかない。世界は猫にも人にも平等である。

「にゃー」

 一声鳴いて、由美子さんの後に続いた。

1856 - 崩れ -

 今日、ついにパードレが島へいらっしゃった。
 数日前から、この村にパードレが来島なさるかもしれないという噂が流れて、でもそれは確証がなく、大人たちはそわそわしていた。そして、パードレをお迎えするためには、役人たちに見つからないよう準備を進めなければならず、自分たちが崇めている像をこっそり磨いたり、パードレの滞在場所を黙々と用意したりしていた。それから更に、自らの気分の高揚を役人たちにばれてしまわないようにと、細心の注意を払っていた。
 そして、ついにこの日がやってきたのだった。この日、パードレに面会できるのは、長と重役と、大人数人。その後、他の人も面会できるかどうか検討されるようだった。
 しかし、私はどうしても我慢できずに、パードレが案内されたと思う小屋をこっそり覗いていた。
 藁の隙間から覗く小屋の中は、薄暗くて、パードレがどんな方でいらっしゃるかまでは判別することが不可能であった。そして、大人たちの会話もひそひそ声で、外に漏れぬよう気遣っているためか、何を話しているかも聞き取ることが出来なかった。
 私は諦めてその場を立ち去り、農作業に戻った。


 私は幼い頃、病気にかかったことがある。その時、両親は必死でオラショを唱えて、私の病気は治ったらしい。
 そして、現在、今度は父が病気にかかっている。しかし、家族の中でそれを知っているのは私だけかもしれない。この前、父が家の裏で、激しく咳き込んだ後、手のひらに血を吐いたのを、私は偶然見てしまった。父は普段、家族の前では元気な振りをしている。けれども、目に見えて痩せていっているので心配だ。
 父はとても善良である。そして、熱心なカクレの信仰者でもある。そして、私もカクレの信仰者ではあるが、父と同じほど信仰に厚くはない。こんな私の病気は治って、父の病気は進んでいる。信じることで救われることは本当にあるのだろうか。

 
 本土の方で、また激しい弾圧があったらしい。役人たちの拷問は目に見えて酷くなってきているようだ。海の満ち引きを利用した気の狂うような拷問。生きながらに頭から血を抜く逆さ吊り。役人は、人々に如何に衝撃を与えるか、長い時間苦痛を与えることが出来るか、そんなことしか考えていないようだ。今週、この村にも役人が来て、私たちは罰を受けることになるかもしれない。長がうまくそれを防いでくれるかもしれないし、全員処刑される可能性もある。それまでに、パードレの安全な場所への移動も考えなければいけない事項の一つであった。


 私はどうしてもパードレにお会いしてみたかった。お聞きしたいことがあるのだ。しかし、面会は簡単に許されるものではない。そこで、私は仮病を使うことにした。農作業を止め、家で少し休む振りをして、パードレのいらっしゃる小屋へと行くのだ。そして、それは母の善良な優しさによって、遂行することが可能となった。


 藁に覆われた小屋は、その周りが少し淀んで見えるほど、暗い雰囲気であった。周りに人がいないことを確かめると、私は、意を決して、その中へ入ることにした。
 小さな戸を引き開けると、奥の方でパードレが体を硬くして、こちらを窺っていらっしゃった。しかし、私が役人ではなく、ただの農民の女の子に過ぎないと分かると、表情を柔らげたようであった。
 私はパードレの目の前まで行くと、ぺたんと座った。私は緊張していた。パードレの体は、がっちりとしていて、腕や首や全ての部位が、この村の男の人たちよりも一周りも二周りも大きかった。そして、目は涼やかな青色。私は異国人を見るのが初めてだった。私が見つめていると、パードレは私に向かって何か言葉を発したが、私はその意味が分からなかった。そこで、私はその言葉をそのまま繰り返した。すると、師はにっこりとお笑いになるのだった。おそらく、挨拶の言葉か何かだったのだろう。
 緊張が少しずつとけ、じっくり観察してみると、パードレは薄汚れた布を纏い、顔も汚れていて、逃亡することに疲れているようだった。私たちと何ら変わらないような気がした。
「パードレ、私は、主を信じています。辛い現状でも、最後まで信じ抜き、信念を貫こうと思っています」
 恐らく、私の言っていることは分かっていないのだろうけど、パードレは優しく頷いてくれた。
「毎日、お祈りも捧げています。……でも、私は不安なのです。先月、隣村の人たちが拷問にあうのを見ました。人々が死に行く様や、死に近づく時の苦渋に満ちた表情が頭から離れません。彼らは、熱心な信仰者であるにも関わらず、ちっとも安らかな顔をしていませんでした。私は家族がそのような拷問を受けるのが耐えられません。自分はどうなっても構いませんが、家族だけは助けて欲しいのです」
 パードレは、私を心配そうに見つめている。
「この国では毎日、どこかでカクレの信者が拷問によって亡くなっています。これがずっと続けば、何千人、何万人の死者が出ることになるのだと思います。彼らは皆、善良な信仰者です。一方、拷問に挫け、転ぶ人も居ます。転んだ人たちは、カクレを捨てているのに、のうのうと暮らしていくことが出来ています。主は、この現状を分かっていらっしゃるのでしょうか。私は信じることによって、何らかを利益を得ることは願いません。カクレを信じることで精神の安定を得ることはできるのかもしれませんが、熱心に信じていても、救われていない、惨い死に方をしているのが現状です。こんな酷い仕打ちがあるでしょうか。主は何を見て、何を思っているのでしょうか」
 パードレは、力なく笑って、私の頭を撫でた。違う。私が望んでいるのは、そんなことではない。
「両親は、カクレを信じることによって、死後の素晴らしい世界が待っていると言います。しかし、私には死後の世界が見えません。今、ここにいる両親の姿しか見えません。私たちは何故、カクレを信仰しているのでしょうか。毎日、畑を耕して、自然に感謝して、少しの食べ物を家族で分け合い、ささやかに生きていくことが、そんなにも高望みなのでしょうか」
 私は目の前のパードレをじっと見つめた。彼ら異国人が宣教などしに来なければ、私たちはカクレなど信仰しなかったし、役人たちの拷問に怯えることもなかった。否、信じることは悪くない。只、異国人が関わることによって、政府は邪教として排除するのなら、異国人が関わらない自分たちだけのひっそりとした宗教として……。
 カクレを信仰している人を役人に密告すると報酬が貰えるらしい。また、パードレを引き渡すと倍の報酬が貰えるらしい。私はそんな報酬など要らない。只、目の前にいる人が苦しむのに耐えられない。私がパードレを引き渡せば、ここの村人へ対するの役人の疑惑の目は緩むかもしれない。拷問を遠ざけることが出来る。村人たちの命を救うことが出来る。主が人々の命を救ってくださらないなら、私が救う。それによって、私がどんな罰を受けようと構わない。
 きゅっと拳を握って、私は立ち上がった。冷めた目で彼を見下ろす。

プラス

 ぽっかりと浮かんだ月の下、心地良い酔いと供に家路を歩む。何は無くとも頗る愉快で、あの人の声が聞きたくなった。片手に携帯電話を持ち、さて、番号を。そういえば、父が電話してくるのも、決まって酔っているときだっけ。良質な酔いは大事な人の声を恋しがらせる。
 スリーコール。それで出なかったら、眠っているかな。私は携帯電話を耳に当て、カウントを始める。1かーいめ、2かーいめ、3

「もしもし」
「寝てた?」
「寝てると思ったら、常識的に電話しないよね」
「こっちの常識にはそんなのないんだ」
「世間を知ってほしいよ」
「ねえ、ルーズリーフの丸と角、どっちが好き?」
「いきなり何それ」
「ルーズリーフの隅っこ。よく見ると隅が丸いのと角になってるのあるんだけど」
「じゃあ、丸」
「丸はさ、なんか紙質良いからさ、角のより値段高いよね。さすが、お金持ち。私はちなみに角だよ。角のほうがさ、安くて紙が薄いんだよね。でもね、その薄っぺらさがいいんだ。机の上に置いて、シャープペンで文字を書いていると、こつこつって音がして小気味が好いんだ」
「さては君、結構、酔っているね」
「じゃあさ、路面電車の床に穴が開いているの知ってる?」
「今度は路電か。話変えたね。そんなの知らないよ」
「その床の穴からね、私はいつも、何か見えないか観察しているんだけど、結構、路面電車も速度速いんだね。物体として見えるときはいつも電停で止まったときだけだよ。走っている瞬間は流れる何かしか見えないよ。世界の車穴から」
「世界じゃないし、地方だよね。語呂も良くないよ」
「いいよねえ。都会は何でもあってさ。こんな田舎とは違ってさ」
「そっちに居たって、今はオンラインで何だって欲しい物を買えるじゃないか」
「でも、傍にあなたはいないよ」
「うん」
「…………」
「あと二日で夏休み始まるね」
「そうだね」
「会おうか」
「そうじゃなくて」
「ん?」
「うう」
「会いたいから、会いに行く」
「合格!」


 きっと、私から電話しなければ、この関係もすぐに終わってしまうかもしれない。しかし、こうやって、声を聞いて、やりとりをして、繋がっていることを確認して、まだ大丈夫なのだと思える。
「夜道、気をつけてよ」
「うん、ありがとう。だいすき」


 まだ、大丈夫。そして、これからも、と願う。

研削

 夢が流れた。

 母がどこにも見当たらないので、買い物にでも行ったのかと思っていたところ、父が帰ってきた。何とも妙な顔つきをしている。一体どうしたのかと思い、問うてみたら、母が倒れたのだと言う。そこで、私と弟に不安が過ぎる。立て続けに父に問い質す。母は大丈夫なのか。具合はどうなのか。入院なのか。すぐに戻って来れるのか。
「母さんの意識はない」
 父はこんな時にでさえ、ぽつりとか答えない。父の顔が少し歪んで見えた。私たちを動揺させまいと、無理に笑顔を作ろうとしたのかもしれない。しかし、それが余計に私を苛立たせる。
「なんで……」
 自然に涙が溢れていた。弟の方を見ると、泣いてはいなかった。
「なんで……なんでなのよ……」
 父の腕を掴んでその言葉だけを繰り返した。父は何も言わなかった。
 涙がどんどん溢れてきて止まらない。自分がこんなに感情に揺り動かされるものだとは思わなかった。
 母の意識はもう戻らない気がした。



 夢が流れた。

 最初は祭りかと思っていたが、実際、そうではなかった。若者は手に爆竹や小さな手榴弾などを持っていたのだ。
 私は必死で逃げる。そして、追ってくる相手の足元に向かって、ガラス製の小さな皿を投げた。それは思い切り割れて、小さな破片となり、相手の足に刺さる。これで、暫くは追ってこないだろうと思ったが、自分の足にも幾つか破片が刺さっていた。ちくりと痛いので、それを急いで取り去り、川の方へと逃げる。すると、今度は竹刀を持った男が追ってくる。私も自分の竹刀をもって、その攻撃を受ける。思ったよりも上手く防御することが出来て、剣道をやっていて良かったと思った。そして、竹刀を使い、男が仕掛けた爆弾を川の中へと放り投げた。
 まだ逃げなければならない。



 夢が流れた。

 庭に繋いでいるマルクスが何をしているのか気になって、ふいに窓から覗いてみた。
 すると、そこにはマルクスに似た茶色の柴犬のような雑種のようなものが十匹ほどいた。きっと父と母が拾ってきたのであろう。
 マルクスはどこにいるのかと思ったら、隅のほうで丸くなっていた。こんなにたくさんの犬がいては狭かろうと思ったが、何をするわけでもなかった。マルクスが少し、薄汚れているように感じた。そして、他の犬も毛がぱさぱさとしていた。
 これほどたくさんの犬がいては、一匹の犬に対しての愛情も薄れるのではないか。私はこれらの犬を目の前に、少しうんざりしていた。
 所有するものの数が少ない程、それに対する愛情は深まる。

外部評価

「だって、モトムラさん、友達いないでしょ?」
 池田さんは小さなグラスに入ったワインを飲み干す。私のアパートという小さな空間でも、池田さんの品の良さは崩れない。まさか、彼が、私の部屋に来るとは思わなかった。
「私、ホンムラです」
「ああ、ごめんごめん。本村って漢字、いつも読み方を悩んじゃうんだよね」
「別にいいですけど」
 私は池田さんのグラスに注ぎながら、こっそり彼の様子を伺う。
「私は友達がいないというわけではなくて、単に仲良しごっこが嫌いなだけです」
「しっかりしてるね。自立してるというか。そんなところが良いんだけど」
 池田さんが、いくら仕事上とはいえ、私を気に掛けてくれるのは嬉しかった。たとえ、それが慈善だとしても。私は決して自分を卑下しているわけではない。只、普段だったら、池田さんという人は接点のないタイプの人間なので、観察するのが興味深いのだ。私は彼のスーツ姿を好ましく思う。横顔も。骨ばった手も。

「ねえ、暑いからネクタイ外しても良い?」
 そう言って、彼はジャケットを脱ぎ、ネクタイを取った。
「暑いなら、エアコンつけましょうか?」
 私がリモコンを取ろうとして立ち上がると、彼がにっこり笑ってこちらを見ている。
「どうしました?」
「エアコンはいいから、こっちにおいで」
 私はよく分からずに、池田さんの目の前に正座した。すると、頭を撫でられる。
「いつも仕事をしてる時に、後ろから見てると、モトムラさんって何だか小動物みたいだから、触ってみたかったんだよね」
 私は何かの生き物扱いですか。ぼんやりと彼を見つめる。すると、いつの間にか彼の腕の中にいた。優しくぎゅうっと包まれる。成る程、これが池田さんのやり方ですか。慣れている感、有りまくりです。




 何も着ない状態だと、池田さんの体温が私の体にとても馴染んだ。只、池田さんのものは大きくて、挿入までにベッドの中で何回も試みることになったのだけれど、ようやくひとつになれた時に、私は少しほっとした気分になった。
「モトムラさんの中、すごく気持ち良いよ」
「……はい」
 私の鼓動はとても早くなっているし、体温は高くなっているし、だるい心地良さが漂っている。
「池田さん、良い匂いがします」
「何もつけてないよ」
 私は彼の鎖骨の少し下辺りに頬をくっつける。池田さんの匂い。たまには、人との繋がりも悪くはない。頭を撫でられながら、そう思う。彼のことがもっと知りたくなる。
「ねえ、いっぱい気持ち良くなりたい?」
 池田さんは体勢を変えて、私の上に乗る。そして、動き出そうとした時、ベッドの隣に置いていたケータイのバイブが鳴る。リズムからして、私のではない。
 ディスプレイに光る名前が見えたのか、彼の表情が明らかに変わる。

「ごめん。ちょっと……」
 彼は私の体から離れて、ケータイを取る。私の体温が少し下がる。


 そして、池田さんは夢中で話し出す。まるで、私がそこにいないかのように。
「おい、何でお前、電話出なかったんだよ。何回も電話したんだぞ」
(誰?)
「ずっと心配してたし。メールも送ったよ」
(彼女なの?)
「え? 今から? 大丈夫。行くよ行く。お前の家でいいよな?」
(今から行くの? 私はどうすればいいの?)
「分かった。すぐ行くから、待ってろ」



 話し終わってケータイを閉じた池田さんがこちらを見た。
「行くんですか?」
「ごめん」
「最後までしないんですか?」
「そういう気分じゃない」
「……分かりました。行って下さい」
 彼は服を着始める。



「嘘です!」
 私はぎゅっとシーツを掴む。
「行かないで」
 私が呼び止めようとも、彼は最後にスーツのジャケットを羽織った。
「待って!」
 私は裸のまま、ベッドを出る。


「ごめん。モトムラさん、タイプじゃないんだよ。なんか、無理」
 彼は玄関へと歩いて行った。バタンと扉が閉まる音がした。


「名前……、いい加減、覚えてよ……」


 私の体も名前も池田さんの前では価値は無い。それでは、誰の前なら、価値を見出せるのかと考えたが、誰も思い付かなかった。私は裸のまま立ち尽くす。体温と共に、何かを失いつつあった。  

it's all Greek to me

 理科室のドアをそうっと開けると、白衣を着た先生と、ゆらゆらした煙が見えた。
「先生、校内、禁煙ですよ」
「お。他の先生かと思って少し驚いたぞ。どうした?」
 先生は慌てて煙草の火を消しているようだった。
「分からないところがあるので、質問に来ました」
「どうぞ」
 私は少し薄暗い理科室の中へと足を踏み入れる。そして、先生に一番近い椅子に座る。体が少し緊張するので、ノートをぺらぺらと捲ってごまかす。
「先生、同素体同位体の違いが分かりません」
「おい、岡野。この前の授業で教えたばっかりなのに」
「寝てました」
「堂々と言うなよ」
「先生のことは好きですけど、化学は嫌いです」
「化学は神秘的で面白いぞ」
 あっさりかわされたので、私は仕方なくノートに同素体同位体という言葉を書き出す。
同素体は、同じ元素から出来るもの。ダイヤモンドと黒鉛、酸素とオゾン等だ。同じ元素だが、性質は異なる。硫黄、炭素、酸素、リンでスコップと覚えておけ」
 私はノートに“スコップ”とメモする。
元素記号で書かないと、何がスコップが分からないぞ。SCOPだ」
 先生が笑って、煙草に火を点ける。私は頷いて書き足す。
同位体は、化学的性質はほとんど変わらない。重さだけが少し違うんだ。元素には質量数が伴うが、例えば炭素は12だ。炭素の殆どは12だが、13、14のものもある。同位体には炭素以外にもたくさんあるから、その辺は詳しく覚えてなくてもいい」
「ふうむ。本質は同じだけど、重さが違う……」
同位体は面白い。この前も縄文時代の遺跡が発掘されていたが、あれはどうやって年代を測定してるか分かるか?」
「いえ」
「あれは、炭素年代測定だ。炭素14は半減するのに約5730年かかる。それを基に年代を予測出来る」
「へえ。同じものでも時間が経てば、変化が起こるんですね。でもまあ、人間も同じかなあ」
「ふうん」
 先生はまた新しい煙草に火を点ける。
「吸い過ぎですよ。先生の彼女は煙草のこと、注意しませんか?」
「しないねえ」
 先生は笑っている。
「注意するといえば、女関係のことかな」
「先生は浮気するんですか?」
「浮気はしないけど、たまには女友達に会って食事したりはするよ。それで怒られたりするんだけど。好きだからヤキモチ焼くのは仕様がないと彼女は言っている」
「私なら怒りません」
「そうか」
「好きだというのは言葉の表面上だけで、それは妬みや憎しみです。本当に先生のことが好きなら、体のことも気遣うだろうし、仕事のことも心配したりすると思います。先生と彼女がどんなことをしたり話したりしているのか、私には分からないので、口出しすることではありませんが」
「ふむ」
「いつか、先生と彼女が別れて、その時、私と先生の本質が変化していなかったら、相手にしてもらえますか?」
 私は真っ直ぐ、先生を見つめたが、彼は何も言わなかった。私の先生に対する想いも時間が経てば、炭素みたいに減っていくのかな。否、自分の本質は自分で守っていくしかないんだ。
 先生の反応はない。仕方がないので、私はノートを閉じ、立ち上がって、先生に会釈をする。そして、ドアのほうへと歩く。
 私が理科室から出て行こうとする寸前、背後から呼びかけられた。
「おい、岡野」
 ノートを筒状にぎゅうっと握り締めたまま、振り返る。
「はい」
 一瞬の間、二人の間には、煙草の煙だけがぷかりと浮いている。





同素体同位体はテストに出るぞ」


「……はあい」


 まあ、そんなものだよね。私は気のない返事をした。